『吉本隆明「食」を語る』

吉本隆明「食」を語る (朝日文庫 よ 13-1)
3月に亡くなった吉本隆明氏。うちの書棚には『共同幻想論』とこの本の2冊が並んでいた。で、とっつきやすそうな本書の方を読んだ次第。
食の評論家である宇田川悟氏がインタビューする形でつづられた、吉本さんの「食」にまつわる半生の記。と言っても実は「食」についてはあまり真剣に語られていなくて、魚が嫌いだとか子どもの頃食べたスズメ焼きが好きだったとか。まあ氏が長らく主夫生活を送っていたという話は私は初耳だったので新鮮だったが、かといってさしたる人生のターニングポイントや何かに触れられているわけでもなく、なんというか漫然とした雑談のような本だった。

 僕の好きな言葉なんだけど、孔子が川のほとりに立って、「逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(や)めず」と言ったというのが論語の中にあるんです。つまり、流れ去ってゆくものはこういうものなのかと。流れる川は昼夜をおかず流れているなという。それだけの言葉なんだけど、すごく感心して。それから、毛沢東が言った中国語でいちばんいい言葉だと思っているのは、一九六〇年ごろ日本の文学者なんかが中国へ訪問したときに、僕はそのころデモだなんだとやっていましたから知らないんだけど、そのときによもやま話の末に、毛沢東が「自然には克てません」と言ったというのが雑誌かなんかに出ていたんです。おお、いいこと言うじゃないのと思いました。やっぱりこういうことを言う人は偉いんだなという感じがありますね。

 少し理屈をつけると、そういうことですけどね。でも、たとえばごく身近な知り合いで江藤淳さんなんか自殺して、その自殺した理由っていうのは奥さんの後追いなのかもしれないし、そういうことについては事情を知らないんですけど、だけど潔いなっていう感じがあるんですよ。それに比べると、俺、溺れそうになっても生きていて、なんかカッコよくないなあ、俺やるとなんでもカッコ悪くなっちゃうなあというのもあってね(笑)。往生際悪いなっていうのが、いちばんいい言い方になっちゃうんですけど。もうちょっと理屈をつけると、老体になったら相当努力しないと自然死にならないぞって、つまんない思いがけない変な道筋で亡くなるってことはあるから、だからまあ、できるだけ努力はしているんだっていうことになりますね。

 日本だって僕らが鬱然たる大家でありえないのはそれはごもっとも、しょうがないよ、それは時代のせいだよ、時代の社会のせいだよっていう気がするんですね。それはなんでかって自分なりに考えますけど、少なくとも今の政治体制、経済体制というのは、社会主義と言おうが資本主義と言おうが、どちらも同じように、全部“たそがれ”じゃないかな、いちばん大きな要素は、なにかがたそがれているんだよっていう感じはありますね。だいたい世界的にそうなっている。

 結局僕は、食べ物で、ああ満たされたというのを考えると、どうしても、母親が作った味みたいなのに還元されてしまうわけです。すると、これは怪しいぞという、僕がうまいと言ってるんじゃなくて、母親のことを思い出すということがうまいんだという、結局それじゃないかという結論になっちゃうんですけどね。