2022年を振り返る ~読書編~
いまさらだが2022年を振り返っていきたい。
まずは読んだ本で心に残った12冊。あくまで「2022年に読んだ本」であり、古い本も入っているが、それも含めてこのタイミングで出会って感銘を受けた本、ということで。
「累々」松井玲奈
本書は元SKE48の松井玲奈さんの短編集だが、この人の小説は淡々としながらも真に迫る箇所がふいに現れる、油断ならない文章だと思う。前作「カモフラージュ」を読んで以来注目していたが、本書も途中で“そういうことか!”と気付かされてから、改めて筆者の文才に舌を巻いた。短編集というよりドキュメンタリーのようで、しかもファンタジーを感じるのだ。
「マーダーボット・ダイアリー」マーサ・ウェルズ
戦闘アンドロイドの一人称ハードボイルドSF。中編がつながって一本のストーリーになっている。自分のことを「弊社」ならぬ「弊機」と呼ぶ主人公アンドロイドだが、下巻も終盤になって「女性」だったと気付いて驚いた(まあアンドロイドだからどちらでもいいのだろうが)。細かい設定を三人称ではなく一人称で語らせる手段として、主人公がロボットというのは便利だと思った。
「単身赴任」山口瞳
単身赴任サラリーマンの悲哀を描いた表題作のほか、スナックのママとの恋、知人の娘との恋、死んだ友人の妻との恋、高校時代の同級生に隠していた恋、酒場で交わされる恋愛論、別れた夫のことを娘と振り返るママ、娘を嫁にやる父…。日本がまだ元気だった頃の中年たちの人間模様が淡くもあり濃厚でもあり。そんな中、最後の一編「逃げの平賀」はちょっと異色で、妻に浮気をされていた競馬騎手が八百長騒動に巻き込まれる話。作者自身もあとがきで「私は、小説には、どうしても、運不運があると思っているが、『逃げの平賀』は、私としては、運のよかったほうの小説だと思っている」として、思い入れが深かったようだ。
「ジュリアン・バトラーの真実の生涯」川本直
物語とはなんなのか? とにかく筆者が作り上げた架空のファム・ファタール(生まれた性は男)であるはずのジュリアン・バトラーの生涯を事細かに描ききり、しかもそれが同性愛のパートナーによって書かれた体裁をとっており、なおかつ「ジュリアンが書いた小説は自分との共作だった」と本人の死後に発表する内容で、さらにその著者を本作の作者が取材して書いた体裁という…何重にも入れ子構造になった凄まじい作品。それをわれわれ読者が読んで、ひとに感想を言って、そこまでで完璧な「フィクション世界」ができあがっているのだと思い、戦慄した。
「スモールワールズ」一穂ミチ
不妊治療中の女性と父から虐待を受けている中学生男子、魔王と恐れられた姉が突如離婚、幼い子供の突然死によって開いた禁断の記憶、兄を殺し獄中にある男との往復書簡、15年ぶりに会った娘が「男性になる手術を受ける」と告白、虐待されて捨てられた父親の葬式。どの短編も終盤にかけてドライブがかかって想像外の着地点へ連れて行かれ、あっという間に読み終えた。熱帯魚も金魚も、エレクトリカルパレードも、みんな小さな世界。
「大邱の夜、ソウルの夜」ソン・アラム
あまり読んだことがない、韓国のマンガ。ソウルと大邱で暮らす2人の女性が人生のある一瞬で交わり、離れ、そしてまた近づいていく。それは必ずしも幸せなこととは言えないし、かと言って不幸で繋がっているとも言い切れない。人が背負う不幸はそれぞれ別物だから。しかし、だからこそ共感できることもあるのかもしれない。われわれ読者が持つ幸せも不幸も、またそれぞれ別物。
「大奥」よしながふみ
実はまだ「熊痘」が見つかったところまでしか読んでいないのだが、赤穂事件の顛末や、吉宗の描き方など、うまいな~と思った。
京都国際マンガミュージアムで一気に全13巻を読んだ。ちょっとエッチなヒーローものという記憶だったが、全編「夢」をキーワードにした王道ヒーローマンガでもあったと追体験。夢をかなえるドリームノートを手に入れたときに、自分なら何を書き込むだろうか? そして最終話のあまりにもキレイな終わり方。夢オチと見せかけての「夢から現実となったウイングマンは消えたが…ケン太が夢を持ちつづけるかぎりウイングマンは現れます」という一文に落涙。
「スキップとローファー」高松美咲
つれあいに勧められて読んだが、悪い人がいない優しい世界に心が和んだ。ともするとフィクション世界まで殺伐とした「リアル」が表出するご時世に、こういうのはかえって新鮮。同じ石川県出身者として主人公みつみに共感するところもあり。
「つつまし酒~あのころ、父と食べた『銀将』のラーメン~」パリッコ
アイラップで包んだ鶏もも肉、アボカドやカマンベールチーズの浅漬け、漬けにして炙ったエンガワ丼、若採りした白桃のピクルス、根っこ付きらっきょう漬け、ローソンのホル鍋、冷製サッポロ一番塩ラーメン水キムチスペシャル、山田うどんの赤パンチ、カイワレのおでん…。酒のアテにしたいものが次から次へと。そして終章、お父さんと行った思い出のラーメン屋の話。感動で締めるなんてずるい。ますます酒が進んでしまう!
「そばと私」季刊「新そば」編
老舗の蕎麦屋に行くと置いてある「季刊新そば」という小冊子。そこに連載されていた、著名人による蕎麦エッセイを集めた一冊。浅野忠信、淡谷のり子、今村昌平、桂米朝、北島三郎、衣笠幸雄、ギリヤーク尼ヶ崎、児玉清、桃井かおり、山村聰、淀川長治…あたりのエピソードが心に残った。
「我は、おばさん」岡田育
「おじさん」が良くも悪くも世の中に確固たる地位を築いているのに対し、「おばさん」はまるで負の面しかないかのよう。「おばさん」が忌避される理由は、いわゆる男の社会から逸脱しているからで、でもだからこそ女性の新しいロールモデルになりうるのではないか、と語りかける筆者。本書を読みながら、ピチカート・ファイヴの「メッセージ・ソング」と森高千里の「私がオバさんになっても」を繰り返して聴いていた。
展覧会岡本太郎
この春、大阪中之島美術館が新しくなった。そのうち訪ねてみたいと思っていたが、私の好きな岡本太郎の展覧会がはじまったので、ちょうどよいということで行ってきた。
夏休み中だったし、NHKで放送されていた「タロウマン」効果もあったのか、たくさんの親子連れでにぎわっていた。私は30分ごとに時間を区切った事前予約をあらかじめネットで購入していったが、当日発売は完売の時間帯もあったようだ。
展示品はすべて写真撮影OKという大盤振る舞い。
「夜」や「駄々っ子」はじめ、川崎の岡本太郎美術館ですでに何回か見た有名作品もズラッと並んでいた。
大阪ゆかりのこちらのデザインも岡本太郎。
所せましと並べられた太郎作品は、まさに圧巻。底知れぬパワーを感じた。
1階に設けられていたタロウマンのジオラマ。
こちらはタロウマンならぬ原寸大岡本太郎。
嵐山~天龍寺~梅宮大社
ブログを書くのが1年ぶりなのでいきなりになるが、この3月から京都で単身赴任をしているので、休日には自転車であちこちを回っている。
8月11日は「山の日」…ということで、それにちなんで(山じゃないけど)嵐山へ行ってきた。
まだ午前中早い時間に着いたのもあったのだろうが、お盆近くの祝日にしては人通りが少なかった。
京都五山の第一位、天龍寺。足利尊氏が創設、夢想疎石が開山。設立資金を調達するために元との貿易船「天龍寺船」が仕立てられた…というあたりは、日本史で学んだところ。
写真撮影は禁止だったが、法堂(はっとう)の天井に平成12年の再建時に日本画の大家・鈴木松年により描かれた、直径9mの巨大な八方睨みの龍の天井画も見てきた。
梅宮大社では梅の実を干していた。
「紳士の黙約」ドン・ウィンズロウ
先週末の豪雨で、伊豆山の地滑りには衝撃を受けた。
追いかけ報道を見ていると、上流部分でかつて宅地開発がとん挫した経緯があり、その後始末の盛り土処理が問題だったのではないか、とのこと。
ちょうどそんな折に読んでいたのが、本書「紳士の黙約」だった。
※以下、ネタバレを含みます。
本書の舞台となるのはアメリカ西海岸のサンディエゴ。かつてサーファーやアーティストの聖地だった平和な街にも、宅地開発の波が押し寄せ、都市化していくに伴って貧富の差、人種差別、麻薬、暴力などのさまざまな「現代的」問題が徐々に現れつつある。
それはまさに「波」のようでもあり、また本書の隠れたテーマでもある「地殻変動」のようでもあって、目には見えなくても海の彼方や地下深くで、大きなうねりは静かに生まれ、育ち、そして突然牙をむいて襲い掛かってくる。
その結果、人の命は簡単に奪われるし、それを隠蔽しようとする無理な負荷が、新たな犠牲者を積み重ねていく。
性善説/性悪説といった考え方は、それ自体はあまり意味がないと思いたい。
だが、実際に利己的が過ぎる人間は、いつだって平気で他人を傷つける。よしんば直接手を下すことはなくとも、自分の知らない誰か、将来迷惑をこうむる誰かには、平気で不幸のボールをパスできる。それはいつか、よけきれない大きな波や、逃げられない地滑りとなって誰かに襲い掛かる。
大事なのはその想像力と、ちょっとの思いやりなのかな。大きな波に立ち向かうには、私には力も勇気もなさすぎるから。
水滸伝読了
昨年12月のエントリ「水滸伝 - 太陽の塔とか」で「水滸伝を通しで読みたくて杉本苑子版を買った」と書いたが、そういえばなんだかんだ半年ほどかけて全5巻を読み終えた。
水滸伝をあまり知らない方のためにあらすじを書いておくと、中国の宋の時代、もっというと遼や金といった北方騎馬民族の侵略を受けていた、徽宗皇帝の時世を舞台にしたフィクション。
世の中は乱れ、官僚組織も賄賂が横行するなか、さまざまな理由でドロップアウトした豪傑女傑たちが、武力により独立自治を築く「梁山泊」というとりでに集まり、義軍として官軍に立ち向かう。彼ら彼女らは、唐の時代に封印された百八の魔星の生まれ変わりで宿命によって集まったとされ、まっとうな人生を送りたかっただけなのに、さまざまな乱世の矛盾によって無法者扱いされてきたエピソードが語られていく。地方の暮らしや男女関係のもつれなど、当時の生活風俗の一端が垣間見られて興味深い。
…と、ここまでは普通に英雄群像劇や反乱軍ものとして面白いのだが、問題は、百八の星が全員集合して、押し寄せてくる官軍にさまざまな特技や智謀を活かして大勝利してからの展開だ。
なんと、最終的には朝廷にその力を認められ、正規軍のお墨付きをいただき、北方の遼や南方の一揆(方臘の乱)の討伐軍として使われるのだ。それはそれで八面六臂の活躍ではあるのだが、「さっきまで『朝廷の奸をただす!』とか息巻いてる反乱軍だったのに、手のひら返しで朝廷の犬になってるじゃん…」という残念な感じが否めないのだ。
史実としては、宋は金と手を組んで遼を滅ぼすのだが、かえって力をつけた金に攻め込まれて首都開封までを失い、首都を杭州に移して南宋時代になっていく。
梁山泊軍も、北方の遼と南方の方臘を倒すところまでは描かれるのだが、戦いのなかで死んだもの、軍功により官職につくもの、郷里に帰って静かに暮らすもの、そして負け戦とわかりつつ押し寄せる金軍に対するため北方に向かうものなど、将星たちがばらばらに歴史の渦に飲み込まれていく形で物語が終わる。
まじめに言ってしまえば、水滸伝の成り立ちは講釈師みたいな人が辻に立って細切れにエピソードを語る講談のような形だったというから、そのときそのときでウケるように話をつないだり膨らましていった結果、全体としてはかなり矛盾のある物語になったということだろう。
いちいちおかしなところを指摘するのも野暮なのは充分わかっているのだが、それにしても情緒不安定なリーダー宋江に率いられた百八の将星たちが、やや不憫になった。梁山泊でそれなりに平和に暮らし、金軍が攻め入ってきたらこれと戦って散っていく…という道もあっただろうが。