ユネスコ記念能

国立能楽堂で公演された「ユネスコ記念能」を鑑賞。
2001年にユネスコ総会で無形文化遺産として能が指定されたのを記念し、広く能や狂言に親しんでもらう目的で、とくに海外からの留学生については無料で招待して演じられているのが、このユネスコ記念能とのこと。
演目は、狂言が「佐渡狐」で能が「葵上」(小書「梓之出」)。


私が育った金沢市では、能と狂言の鑑賞会を市内の中学・高校生を対象に実施していたので、能はその時以来の鑑賞ということになる。ちなみにあの時見たのは、狂言は「附子(ぶす)」だったのは覚えているが、能は何だったのかてんで思い出せない。


今回は予習は充分だったので、自分なりに目的意識を持って鑑賞することができた。
とくに「葵上」では、葵上を舞台上に置かれた小袖で表現するという抽象化が、全体にどう活きてくるのかに関心を持って見た。
それについてはまあ、観客がより濃厚にシテの六条御息所の怨念へ感情移入するため…と言ってしまえばそれまでなのだが、梓弓の祈祷であぶり出された六条御息所が、舞台上に実在はしない葵上を観客に想起させ、後妻打ちに至った時に、生み出される感動を狙っての演出と思う。
ただ正直に言って「梓の出」の小書(特殊演出)も含め、今日の公演でそれがうまくいっていたのかどうか…よく分からなかった。


狂言佐渡狐」は初めて聞く話だったが、狂言そのものの分かりやすさもあって、会場もウケていた。同じ動作や表現を繰り返し重ねることで生まれる笑い。
演者の声がちょっと高いのは、あれは演出なのか声質なのか。「きつね」を「きンね/きッね」という感じに発音していたが、あれは大蔵流独特なのか、昔の日本語の発音なのか。疑問は尽きない。
ちなみに私のつれあいの母方の実家は佐渡にあるのだが、ある夏お邪魔した際、家の庭にタヌキが来ているのを見た。その時に油揚げをやっていたので、おばあちゃんに「キツネも来るのですか」と尋ねたら、「キツネはいない」と言っていたのを思い出した。


ところで今回、能が終わって附祝言も終わり、囃子方、謡方と橋掛りを去って行く時に、会場から拍手が起こったのだが、あれはどうなのだろうか。
まあそういうものなのかもしれないが、能というものがこれといったエンディングもオープニングもなしに唐突に始まり唐突に終わる、日常と地続きの非日常であるとするならば、拍手もアナウンスもなく観客も唐突に会場を去り、後には能舞台だけが残る…というのがあらまほしい姿のようにも思った。考えすぎか。