『能に憑かれた権力者 秀吉能楽愛好記』

能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記 (講談社選書メチエ)
秀吉が茶の湯狂いだったというのは、漫画『へうげもの』あたりを参照するまでもなく知っていたのだが、同時に能にもご執心だったというのは知らなかった。
いや実際には『へうげもの』でも秀吉が徳川家康前田利家ら家臣たちと演能に興じる場面は出てきたし、信長が「人間五十年」の幸若舞「敦盛」を好んでいたというのも有名だから、能や謡曲が戦国武将のたしなみの一つだった、というのは何となく理解していた。
ところが本書で知ったのだが、秀吉の能好きは相当のものだったようで、ちょうど茶の湯での北野大茶会と対応するように、禁裏で大々的な演能会を、自身はもちろん、家康、利家、小早川秀秋蒲生氏郷細川忠興宇喜多秀家ら錚々たるメンバーをシテに据えて開催していたという。幼い頃から能に触れていたという家康あたりはともかく、秀吉は能を習い始めてからこの時わずか10ヶ月目というから、素人が揃いも揃って禁中で演芸発表会…というノリ。さらには自身の功績を称える「豊公能」という一連の新作能を作らせ自ら演じたというが、これも能楽の歴史では前代未聞。天下人ならではの無茶苦茶ぶりなのである。


ここで気付かされるのが、能は当時は「見るもの」であると同時に、いやそれ以上に「演じるもの」として戦国武将に受け入れられていたという事実である。秀吉も「名護屋では50日の間に15,6番も能をマスターした」と喜んだ様子が伝わっている。
もともと能や狂言は、南北朝時代に武将の好みに応じて和歌や連歌の要素を取り入れながら形成され、足利義満らの保護によって幕府の「式楽」となる(これはやがて江戸時代にも徳川将軍宣下の際の式能として受け継がれていく)など、武将とは関わりの深い発展を遂げてきた芸能なのだが、当時は今よりももっと上演時間も短く舞台も簡素な「軽い」ものだったらしい。だからこそ、武将による素人能が堂々と演じられていたのだ。
能はもともと素人と玄人の交流が活発な芸能だったようで、戦前までも政財界の名士が演じる「紳士能」というのが頻繁に行われていたそうだ。


ところで、秀吉の能フィーバーも、文禄二年(1593)57歳の頃からというから、62歳に没したことを考えれば最晩年に急激に熱中したと言える。
本書ではその理由として、朝鮮出兵文禄の役)の折、九州名護屋で手慰みとして演じてみるようになったとか、先に能に没頭していた甥・秀次や異父弟・秀長の影響あたりを挙げている。また、千利休切腹を命じたのが天正十九年(1591)のことだから、その欠如を埋め合わせるようなところがあったのかもしれない。


結果的には短期間に終わった秀吉の能楽奨励だが、さりとて安土桃山時代のあだ花に終わったわけでは決してない。後世の能に残した最も大きな影響の一つとして、秀吉が観世・金剛・金春・宝生の四座全てを保護したことを本書では挙げている。

 配当米支給という秀吉の能楽保護は、それが大和猿楽の四座全体を対象としていたところに大きな意味があった。秀吉の金春大夫びいきからすれば、ひいきの金春座だけが保護の対象になってもおかしくはなかったのだが、事実はそうならなかった。かりに配当米が金春座だけに支給されたとしたら、それは能楽保護ではなく、たんなる役者個人の後援の延長であり、徳川幕府による四座お抱えという制度も生まれなかったかもしれないのである。


【追記】
今年は開府400年ということで「武将都市ナゴヤ」なるキャンペーンを行っている名古屋では、まさに「家康らが鑑賞したり演じた能を上演」ということで、「能・狂言でたどる天下統一の道」という企画を名古屋能楽堂で上演中らしい。
http://www.busho-tai.rdy.jp/a_campaign/event/nagoya_nogakudo.html