『能・狂言の基礎知識』

能・狂言の基礎知識 (角川選書)
最近、いろいろと気になることを調べたりしながら「平家物語」を読み続けているが、「平家」に題材を採った演目が能や歌舞伎に少なくない、ということに今さらながら気付かされている。
しかし能の大ネタには、たとえば「古事記」とか「源氏物語」ではなく、何故「平家」ネタが多いのか…という辺りから能そのものがにわかに気になり始めた。これは一度能楽についても調べてみる必要があると思い、とりあえず図書館で本書を借りてみた。


日本史の授業でも習うように、それまでの猿楽や田楽を現在の能の形に集大成したのは、室町初期に活躍した観阿弥世阿弥父子なのだが、とくに世阿弥は『伊勢物語』や『平家物語』を本説(典拠)としてプロットに取り入れた脚本を多数著し、言ってみれば当時の知識人にも受け入れられやすくソフィスティケートした…ということらしい。
先の私の疑問に自ら答えるなら、室町初期の文化人にとってよりポピュラーで重要な(「コンテンポラリー」な)“クラシック”とは、「古事記」などではなく「平家」だった…ということなのだろう。南北朝の騒乱をまだ生々しく記憶していた当時の空気が、強く作用しているものと推測する。
また、世阿弥の娘婿・金春禅竹は和歌に造詣が深かったため『伊勢物語』や『源氏物語』を換骨奪胎した作品を残しているし、室町中期の重鎮・観世信光は貴族や禅僧との交流から漢詩を多く取り入れた作品を書いている。つまり、脚本が書かれた時代を反映して、様々なネタ元が選ばれているということなのだろう。
さらに言えば、戦国末期には武将との交わりから兵法の所作(スリ足や構え)が能に取り入れられた…ということもあったらしい。能の中で出てくる「仏教」に法華経の影響が大きいのも、作られた時代がそうさせたのだろうか。
ともすれば忘れがちになるけれど、現在でこそ完全に凝り固まった古典芸術の感がある能も、(当たり前のことだが)かつては「現代劇」として時代の最先端を取り入れながら常に変化していた。無論、同じことは歌舞伎にも狂言にも、あらゆる伝統芸能にも当てはまる。


能の歴史をたどることは、そうした「前衛(現代)劇」が「大衆芸術」となり、やがて「古典芸術」へ変化していく過程をたどることでもあるのだが、能が大衆のものとなったのは江戸時代である。
筆者によれば、江戸時代の謡(能の脚本)の流行は現代におけるカラオケブームのようなもの…ということだが、俳諧をはじめとする江戸の町人文化バックグラウンドにも万人が共有している知識として謡曲の存在が非常に大きく、この鉱脈はぜひとも掘り返してみなければいかん…と危機感を覚えるのは私だけだろうか(それって200年後に浜崎あゆみの曲を掘り返すようなもの?)。


ところで本書を読んで新たに生じた疑問として、なぜ能や狂言はセットを作り込まず、一畳台や書き割り、面といった抽象化方向に行ったのか? …というのがある。歌舞伎なんかでは割とちゃんとしたセットや小道具を作っているのに。それが能や狂言創生当時のリアリズムだったのだろうか。
あと、本書にあらすじが載っていた「唐相撲」という狂言、デタラメ中国語とアクロバットの連続とのこと。ぜひ一度見てみたい。