『いつか王子駅で』

いつか王子駅で
競馬漬け第11弾。
作者の堀江敏幸という人を私は全く知らなかったのだが、はてな内の感想などを読んでいると、どうも読書人には割と人気のある作家らしい。明治大学の教授(フランス文学)にして芥川賞作家。
本作はその堀江氏の初の長編小説ということで、今はなき雑誌「書斎の競馬」での連載に加筆して出版されたもの。
作者の分身とも思える文筆業のかたわら大学で講師をしている中年の男が主人公で、彼の住む都電荒川線王子駅界隈を舞台にした、何かが起こりそうで何が起こるでもない淡々とした日常風景を描いた不思議な味わいの小説だった。
連載していた雑誌が雑誌だったせいか、随所でタカエノカオリ、キタノカチドキテンポイントテスコガビーといった往年の名馬の名前が出てきて、時にそれが物語の進行に静かに絡んでいく。


ワンセンテンスが異様に長い、それでいて決して冗長にはならない、独白を聞いているようなだらだらと続く文章が、味わいどころ。王子という下町とも工場街ともいえない、どこかだらだらとした風景の町並みによくあった文章だと思う。
作中出てくるスノビズム一歩手前のマニアックな作家やその作品の名前*1が、独特の香りを醸し出していた。


一つ難点をつけるとすれば、作中出てくる人物が、作者の理想を具現化しすぎているように思えるところ。なかんずく主人公が英語を教えている中学生の女の子なんか、素直でハキハキしたスポーツウーマンで中年の主人公に好意を持ってくれていて…と、とてもこんな子が現実にいるとは思えない。


王子という町は、落語の「王子の狐」なんかを聞くと昔は相当草深い田舎だったのだろうが、近年では王子製紙印刷局ができて一躍活況を呈した。その王子製紙の工場もいまでは移転してしまい、住宅や団地が多く建てられるようになったそうだが、印刷工場や製紙工場もまだ多く残っており、「王子=紙の町」というイメージにふさわしく「紙の博物館」という施設もある。
育児休暇に入る前の2年間、私も仕事の都合で王子に通っていたことがあって、23区内でありながら都会の気忙しさから取り残されたような、都電の走るあの町並みを思い起こしながら、この本をゆっくりと読み進めた。
あの頃よく通っていた喫茶店のマスターや常連客のみんなは、元気にしているだろうか?

*1:ジャック・オーディベルティ「モノラーユ」、島村利生「残菊抄」、安岡章太郎「サアカスの馬」、徳田秋声「あらくれ」、赤羽末吉「スーホの白い馬」、島村利生「清流譜」