『運命に噛みついた馬 サンデーサイレンス物語』

運命に噛みついた馬―サンデーサイレンス物語
競馬漬け第8弾。日本競馬を塗り替えた偉大な種牡馬サンデーサイレンス。その誕生から現役時代、そして日本に買い取られるまでを、米国を代表する競馬専門誌『ブラッドホース』の編集長も務めていたレイ・ポーリック氏が丹念な取材をもとにつづったルポルタージュ


私が本格的に競馬を見始めた1994(平成6)年は、まさにサンデーサイレンスの子供たちが日本でデビューしはじめた年だった。この年の12月には早くもフジキセキという子供が日本のGIレースを制覇し、以後今年に至るまで毎年GI馬を輩出しているのだから、言ってみれば私にとっての競馬人生はそのまま「サンデーサイレンスの時代」ということになる。
残念ながらサンデーサイレンスは、2002(平成14)年に16歳で亡くなっているので、その子供の活躍する姿は間もなく見られなくなるのだが、すでに引退して種牡馬となっている子供・孫もたくさんいるので、その血脈が日本競馬から全くなくなるということは最早ありえないだろう。


そんなサンデーサイレンスだが、幼い頃の評価は非常に低かった。
脚の形が悪かったためセリで売り払われることになり、それでも買い手がつかなかったので、仕方なく生産者のアーサー・ハンコックが引き取って、調教師のチャーリー・ウィッテンガムと共同でオーナーになることになったのだという。競馬の世界で後に「名馬」と呼ばれる馬に、この手の「幼い頃は買い手がつかなかった」というエピソードが多く見られるのは面白い。
他にも、幼い頃に一度は腸の病気で、もう一度はまさにセリで売れ残って牧場に帰る途中に運転手が心臓麻痺で急死してトラックが横転し(そんなのあり得るか?!)、何度も九死に一生を得ているだとか、生産者のハンコックは無理に牧場を拡大していて多額の借金を抱えていたので、サンデーサイレンスの活躍がなければ破産していただろう*1とか、伝説を彩る逸話は枚挙に暇がない。


そうした逆境を乗り越えて(運命に噛みついて)、サンデーサイレンスはデビューを果たしてからは驚くべき活躍を見せたわけだが、とりわけ1989年の3歳時には、終生のライバルであるイージーゴアと数々の死闘を繰り広げた末、米国3冠レースの2冠と米国最大のレースであるブリーダーズカップ・クラシックを勝ち取り、みごと年度代表馬に輝いている。
が、これほどの成績を残しながらその現役時代は一貫してライバルのイージーゴアのほうが人気があり、いつまでたっても「本当はイージーゴアのほうが強いのではないか」という声がなくならなかったそうだ。それはイージーゴアのほうが父親も母親も活躍馬である「良血」であったことや、東海岸の都市部を主舞台に走っていた(サンデーサイレンスの主戦場は西海岸)ことなどが理由なのだが、「良家のお坊ちゃまに立ち向かって打ち勝つ雑草のようなやんちゃ坊主」という構図も、まさに日本人好みのものだ。


こうした幾多の挿話に彩られたサンデーサイレンスの物語は、実はそのまま、同馬を取り巻く人間たちのドラマでもある。
生産者でオーナーのハンコックはこの馬により借金から救われ、共同オーナーで調教師のウィッテンガムは宿願のケンタッキーダービーで勝利を果たす。主戦騎手のパット・ヴァレンズエラは薬物中毒と戦いながら(時にはそれが原因で下ろされながら)数々の栄冠に導き、さらにハンコックと親の代からの友人だった日本人生産者の吉田善哉・照哉父子は粘り強い交渉の末サンデーサイレンスを日本に連れてくることに成功した。
サンデーサイレンスが関係者たちに見せた多くの奇跡。そして奇跡はやがて、日本という異国の地で子供たちを通してさらに多くの人間(私を含む)の前で引き起こされた。
一頭の馬によって結び付けられるその不思議に、改めて思いを馳せずにはいられない。これこそが競馬の醍醐味なのかもしれない。

*1:借金があったので仕方なく日本に売った、という事情もあったらしい。