『サラブレッド・ビジネス ラムタラと日本競馬』

サラブレッド・ビジネス―ラムタラと日本競馬 (文春新書)
競馬漬け第3弾。
ラムタラ」と言っても歌舞伎町なんかにあるビデオ屋のことではなくて、ドバイの王族が所有していたサラブレッドの名前である。現役時代はその記録破りな競走成績によって、そして引退後は33億円で種牡馬として日本人グループにより購入されながら、思ったような子供を作ることができずに、買ったときの100分の1以下の値段で英国に買い戻された馬として、競馬ファンに鮮烈な印象を与えた馬だ。
はてなキーワードを引用しよう。

名前はアラビア語で「けっして見ることはない神の力」であり、またその名に相応しい競走生活を送った。
デビュー戦の半年後ぶっつけで臨んだ英ダービーを6番人気ながらレコードタイムで優勝、そのままキングジョージ凱旋門賞も制し無敗でミルリーフ以来24年ぶりの近代欧州三冠達成。
偉業達成後即引退し欧州で1年の種牡馬生活を送った後、株式会社ジェイエスが日本に導入。購入金額は33億円ということもあり当然ながら話題となった。総額44億円のシンジケートが組まれたものの、現在のところ目立つ産駒を出していない。
2006年7月3日、アロースタッドに繋養されているラムタラの英国への売却が、6月中旬に行われたシンジケートの臨時総会における書面決議で決定したことが明らかになった。買い戻し価格は24万ドル(約2750万円)で、2006年シーズンの種付けを終え9月5日に英国へ移動する。

本書はこのラムタラが日本に導入された直後に書かれたもの。日本で生まれたラムタラの子供たちがまさにデビューを迎えようとしていた、2000年の2月に出版されている。
従って種牡馬成績についてはまだ未知数だった頃の熱気が行間に感じられ、その後の不振を知っている現在の私が読み返すと、一抹のむなしさを感じずにはいられない。

また、本書は大きく分けて二部構成になっているのだが、それぞれに中身を濃く書こうとした結果どっちつかずになってしまっていて、読んでいて物足りなさを感じた。
最初にラムタラの無類の現役時代が語られた後、ここまでの名馬が日本人に買われたことについて、国内外から「あたら名馬を極東の競馬後進国(かつては「種牡馬の墓場」と呼ばれていた)日本に行かせるなんて…」という批判が起きたことを記している。
それに対し筆者は、「競馬は金のあるところに馬が集まるスポーツである」という事実を歴史を振り返りながら説き起こし、ラムタラの日本への輸出も時代の趨勢だったと暗に言っている。この辺の「サラブレッドの歴史とビジネス」という観点がなかなか面白いものであるだけに、限られたページ数でサラリとしか触れられていないのが、いかにも物足りない。
そして後半で再び、ラムタラを導入した北海道・日高のサラブレッド生産者たちの姿がドキュメントで描かれているのだが、ここは面白いところだからもっと分量を割いて書いてもらいたかった。


気になったエピソードをいくつか。

  • ラムタラを最初に担当していた英国の調教師アレックス・スコットは、デビュー戦で完勝した直後、ブックメーカーで翌年のダービーでのラムタラ優勝に1,000ポンド(約17万円)を賭けていた。その時のオッズ(倍率)は34倍。ところがその1ヵ月後、スコットは些細ないさかいから元従業員の男に銃で撃たれ即死してしまう。享年34歳。この後新進気鋭のサイード・ビン・スルール厩舎に預けられたラムタラは、デビュー戦以来10ヶ月ぶりのレースとなるダービーを見事に勝利。スコットの馬券は、本来なら購入者の死亡とともに無効となるはずだったが、ブックメーカーの特例により未亡人に3万4,000ポンドが支払われたという。
  • ラムタラの現役時代の実質的オーナーであり、ドバイ王族の中で最も熱心に競馬事業に取り組んでいるシェイク・モハメドについて。1973年の7月、パリから東京に向かっていた日本航空404便がハイジャックされ、いくつかの国を経由した後に着陸したのがドバイ空港だった。このときにハイジャック犯と直接交渉に当たったのが、当時UAEの国防大臣をしていたシェイク・モハメドだったそうだ。1948年生まれのシェイク・モハメドは当時25歳。「自分の手で交渉をまとめるまで、絶対に降りてくるな」と父のシェイク・ラシード国王(当時)に促され、管制塔に入っていったシェイク・モハメドは、実際に不眠不休で交渉に当たった。
  • ラムタラを購入した日高の生産者たちの間で、初めてその話が出た晩の話。静内町の「赤ひげ」という居酒屋での飲み会の席でのことだった。ラムタラ購入の発起人の一人、藤原悟郎(藤原牧場)が酔った勢いで、同席していたフランス人のサラブレッド・エージェントに「ラムタラを種付けしたいんだけど…」と持ちかけた。「ラムタラなら買えるかもしれませんよ」と答えられたところから、話を現実的に考えはじめたのだという。


1995年の英ダービー(実況は杉本清氏)