『馬の耳に真珠』

競馬評論家の井崎脩五郎氏による、競馬にまつわる「嘘のようで本当にあった話」を集めたエッセイ集。
競馬というのは記録のスポーツである。近代競馬がイギリスの王侯貴族により生み出されてから、400年以上の長きにわたり延々と記録が積み重ねられてきた。レースの勝ち負けはもちろんのこと、レースの距離、条件、天候、出走馬の血統、騎手、馬主、生産者、そしてレースがギャンブルの対象となってからは賭けの金額や払戻し金、ルール、罰則などなど、ありとあらゆる事象が、競馬の行われる全ての国において記録されてきたわけだ。
その膨大なサンプル数を考えれば、本書で取り上げられたような競馬にまつわる常識では考えられないような偶然の一致や簡単には説明のつかない不思議な出来事も、起こりえないことではないように思う。
たとえばこんな話。

  • 犬が馬主になってしまう
  • 1レースから最終レースまで全ての勝ち馬を的中させたノーベル化学賞受賞者
  • デビュー戦から引退まで35戦全てが「重馬場」だった馬
  • マダム・タッソーの蝋人形館に毎年1度だけ現れる「白馬」
  • ゴール直前に隕石の直撃を受け絶命した馬
  • 発走したまま向正面で神隠しにあったように濃霧の中に消えてしまった人馬


中でも「よくできた話だな〜」と思ったのが、フランス産馬で史上初めて英国ダービーを勝ったグラディアトゥール号を撮影したカラー写真についてのエピソード(「よみがえった馬」)。

1992年、ロンシャン競馬場で行われたG1レース「フランス2000ギニー」。それを見に行った作家で競馬通のアントナン・ディラック氏が、帰りに立ち寄った古書店で一冊の古いノートを見付けた。それはカラー写真技術の生みの親である19世紀末の写真技師ルイ・デュコ・デュ・オーロンの残したノートで、自らが撮影した対象を事細かにメモしたものだった。そのリストの中に、「1872年10月にグラディアトゥール号のカラー写真を撮った」という一文があった。グラディアトゥールは英国ダービーを勝った馬としてフランスでは絶大な人気を誇る馬で、フランス2000ギニーの行われたロンシャン競馬場にもその栄光を称える馬像が建てられている。
ディラックが新聞のコラムでこのリストの発見について書いたところ、駐仏中国領事館次官が「私の実家にグラディアトゥールのものと思われるカラー写真がある」と名乗り出た。次官が上海にある実家からその写真を取り寄せてみたところ、間違いなくオーロンの撮影したグラディアトゥールだった。これは世紀の発見と当時大騒ぎになった。
ちなみにディラックがオーロンのノートを発見するきっかけになった、その年のフランス2000ギニーの優勝馬の名前は、偶然にも「シャンハイ(Shanghai)」だった。