『「伝統」とは何か』

<伝統>とは何か (ちくま新書)
最近は「愛国心教育」とかいう言葉が跳梁跋扈している。その一方で「若者の右傾化」とかが盛んに言われている。
こうした人たちが思い浮かべる「祖国日本」とか「守るべき伝統」とかって、一体何なのだろうか?
学校で習った日本史に基づいたもの? 自分で調べて勉強したもの? 誰かに教えられたもの? 地域やコミュニティーで長年行われている習慣から学んだもの? それとも映画やドラマや小説、マンガなんかて植えつけられたイメージ?


この本の著者である大塚英志氏は言う。

 しかし「伝統」も、「歴史」と同様に「つくられた」ものである。特に今日、ぼくたちが「伝統」と信じる習慣や思考の多くは、明治以降の近代に新たに出来上がったものだ。近代国家というのはそこに生きる人が、たとえば「自分は日本人だ」という「われわれ意識」がないと成り立たない。その時、「日本」という「われわれ」の帰属先が、昔からずっとあるように根拠付けるために「伝統」が「発見」されてしまうのだ。

大塚氏はこうしたことを、柳田國男民俗学の成り立ちにまつわる面白い薀蓄を傾けながら、細かく解説していく。
実は「歴史や伝統は恣意的に作られるものだ」という話自体は、よく言われることであって取り立てて新しい事実でもない。多くの「伝統」が明治期に作られたものだとか、古くからの慣習と思っていたら意外と歴史が浅いなんてことも、割と当たり前のことだ。
大塚氏は、

 ただ、ぼくは本書で、「歴史」も「伝統」も作られたものにすぎない、とだけ主張して終わるつもりはない。誰かが政治的意図で「つくった」ものを無批判に信じることにまず冷静であるべきだが、ぼくはそこで、何も信じるなと虚無主義を語ることはしない。

として、「『伝統』やナショナリズムに替わる『私』と『国家』との別のかたちでの関わり方」を提示しようと努力している。
その可能性は、柳田民俗学が「山人」論から「常民」論へと遷移していく谷間に一瞬垣間見られた「公民の民俗学」にこそあるのではないかと言う。

 だからこそ、ぼくは「公民の民俗学」の可能性を改めて主張する。「群れを慕う」の断念から出発し、名付けられていない、定かでさえないが、しかし、それぞれの「私」を出発点とし、互いの差異を自らのことばで語り合い、それらの交渉の果てに「公共性」があるのだと考えた、昭和初頭に束の間出現した「公民の民俗学」こそが、ぼくたちが「日本」や「ナショナリズム」という、近代の中で作られた「伝統」に身を委ねず、それぞれが違う「私」たちと、しかし共に生きうるためにどうにかこうにか共存できる価値を「創る」ための唯一の手段であると考える。

ここで言われている「公民」というのは、「民主主義社会における善良な選挙民」としての市民のことだと了解したが、つまりはいろんなしがらみから解き放たれた独立した市民になって物を考えよう…ということだろうか。
日本人は(近代国家で言うところの)市民たりえていない…というのも、これはこれで言い古された話だと思うが、まあその通りなのだろう。