『日本の偽書』

日本の偽書 (文春新書)
以前『偽書東日流外三郡誌」事件』という本を取り上げた時に*1もチラリと触れたが、私は(父親の影響で)「古史古伝」とか「超古代史」に小中学生の頃にはまったクチで、「東日流外三郡誌」はもちろんのこと、本書で取り上げられている「上記(うえつふみ)」や「秀真伝(ほつまつたえ)」、「竹内文書」といった書物の名前も、「ウガヤ王朝」という用語についても、一通りの知識は持っている。…と言っても、知らない人にはチンプンカンプンだろうし、正式に日本史をやっている人には鼻で笑われるだろうが…。


これらの書物はいずれも、日本の古代に、正史には抹殺された王朝や文明があったという内容で、江戸末期から明治、大正、そして昭和と、定期的にブームを起こす特徴がある。
しかし、結論から言えばこれらは明らかに「偽書」、つまり後世の人間が何らかの意図を持って古く見せかけた贋作であり、その内容も全て荒唐無稽で事実とは程遠いことが、自明の理になっている。


筆者は、何故こうした荒唐無稽な文献が人々に信じられるのかについて、以下のように説明している。
まず下地として、幕末の開国や明治維新、戦争、高度経済成長…といった、いわば日本人の民族の正当性を裏付ける必要性がある雰囲気があり、「偽書」はここに巧みに入り込んでいく。そして、批判に対しては以下のような論理(というか屁理屈)で抗弁する。
1)荒唐無稽に見える話にも、実は現代人には理解できない深遠な真実が隠されている
2)文献の量が、個人の作業では不可能なくらい厖大である
3)文法の誤りは近代に写本されたものであるため


また、筆者の「東北に怪しい伝承を持ち込んだのは外部の人間」という説は、面白いと思った。「東日流外三郡誌」の贋作者は東北の人間だったが、東北古代文明説から考古学における「ゴッドハンド」事件、義経伝承、キリストやモーゼの墓伝説…等々、これらは全て中央の人間が東北(北陸)に持ち込んだ幻想と言える。
筆者は、平安時代にまでさかのぼれるこうした流れを、「地方伝承の素材が中央で文芸化され、地方に逆移入され伝承として定着」と位置づける。


さらに、中世院政期の「文狂い」という機運に、偽書誕生の揺籃を読み解く段も、興味深かった。王朝文化が行き着くところまで行き着いた平安末の院政期、過剰なほど典拠、ソース、故事先例を求める息苦しい雰囲気から、逆に典拠を捏造する動きが生じ、12世紀当時すでにあまり読まれなくなっていた日本書紀が今案(新しい)和歌の典拠として脚光を浴びる…という一連の流れには、激動期のダイナミズムを感じた。


本書で偽書や捏造の歴史を追った後で感じたのは、「ネット時代の信憑性はどこにあるのか?」ということだった。それはつまり、「現代において「偽書」が現れるとしたらどんなメディアで登場するのか?」という疑問でもある。
ブログ? SNS? Twitter? ウィキリークス? 従来の活字メディア?

*1:2009年12月27日の日記参照のこと。