『屍者の帝国』

屍者の帝国
2009年に夭折したSF作家の伊藤計劃の遺稿をもとに、親友でもあった芥川賞作家の円城塔が大幅に書き足すという形で2012年に出版されたSF小説
「屍者」と呼ばれるゾンビを使役する空想上の近代イギリスを舞台に、シャーロック・ホームズに出会う以前の若き日のワトソン博士が、新大陸から極東日本までをも巻き込んだ世界的陰謀に挑む…という、荒唐無稽ではあるけれど実に興味深いパラレル世界の物語。
霊素、骨相学、動物磁気、パンチカード、ルクランシェ電池、気送管、昇降機、マルティニ・ヘンリー銃、三十八の星をあしらったアメリカ合衆国旗、八十日間世界一周、トマス・クック、アルフレッド・ノーベルニトログリセリン…といったスチームパンク的近代要素に、インストール、ケンブリッジエンジン、プラグイン非線形四肢制御、シミュレーション、モデリング、屍者制御ソフトウェア「ネクロウェア」…といった現代的な言葉が併記される、不思議な文章(このあたりの言語感覚については、多分に円城氏の素養の影響かと思う)。


作中の重要な概念として、「生命の進化とはある種の病気(感染)によるものなのではないか」という考え方が出てくる。主人公のワトソンは、最初それが菌によるものだと理解するのだが(細菌よりさらに小さいウィルスやDNAといった概念が一般的でなかった当時ではこれが限界だっただろう)、その彼に、作中のある登場人物がこんな風に問いかける。

「こう言い換えるのでどうかね。『菌株(ストレイン)』ではなく、未知の『Ⅹ』とね。Xには好きな言葉を入れると良い。一番気持ちが安定するものをな。『魂』でも『意識』で、『欲望』でも構わない。ただの言い換えにすぎないが、理解はしやすくなるはずだ。」
「わたしなら単純にこう呼ぶ。『言葉』と。感染性も、意識への影響力も充分だ」

主人公ワトソンは、従者であり記録者である屍者フライデーが残した記録を振り返りつつ、物語の最後で一連の冒険をこのように回顧する。

わたしは、フライデーのノートに書き記された文字列と何ら変わることのない存在だ。その中にこのわたしは存在しないが、それは確固としたわたしなるものが元々存在していないからだ。わたしはフライデーの書き記してきたノートと、将来的なその読み手の間に存在することになる。わたしが自分と感じるものが、Xの活動と、このわたしによって構成されているように。このわたしが今、こうして何かを感じることを、読み手は一体どうやって理解することができるのだろうか。


メタ視点で考えれば、これは「言葉」をテーマにした物語だったんだと思う。「言葉」により存在は生まれ、亡び、そして永遠を授かる。まさにこの小説という存在が、もともとの作者である伊藤計劃の死によっていったんは亡びかけつつ、円城塔が言葉をつむぐことで救われ、こうして存在することを許されたように。