『禁色』

禁色 (新潮文庫)
三島ヅケ第6弾。
いやー読むのに時間かかった。長いんですわ、これが。新潮文庫版で本文568ページの大著。元々は前半と後半にわかれて発表されたものらしいが、それにしても20代の後半にしてこれだけの大作を物すエネルギーはどこから来るのか。本当に凄まじい。


この『禁色(きんじき)』という小説を知らない人のために、簡単にあらすじを説明すると、こんな感じ。

醜い老作家・檜俊輔が、絶世の美青年でありながら同性愛者である南悠一を使って、かつて自分を裏切った女たちに復讐を企てる。
俊輔の導きに従い、美少女と結婚し貴婦人たちを惑わす悠一は、その一方で同性愛にのめりこむようになり、若く健康な青年たちと一夜限りの情愛を交わし、年かさのパトロンたちからも寵愛を受ける。
しかしいつしか悠一の性癖が家族に漏れ、それと相前後して悠一自身が「生活」に目覚めるようになる…。


あらすじだけ追うと、昼ドラみたいなショッキングな場面の連続のように見える。しかし、これは『禁色』以外の三島由紀夫の長編にも言えることだが、「イベントは発生しているがドラマは起きていない」という印象を受ける。
すべては三島由紀夫が精緻を凝らした箱庭内での出来事で、クローズアップすると奇抜なパーツが散見されるのだが、全体は静謐で動きのない、閉じた世界なのだ。


本書で見られる「奇抜なパーツ」としては、南悠一を中心としたホモセクシャルの世界(これが異様に生き生きとした筆致で描写が細かい!)がまず目に付く。
悠一が初めてハッテン場に足を踏み入れた場面。

 彼は便所の湿った仄暗い灯下へ入った。斯(この)道の人が「事務所」と呼んでいる所以のもの、──この種の事務所の著名なものは東京に四、五箇所存在するが──、事務的な黙契が、書類の代りに目くばせが、タイプの代りに小さな身振が、電話の代りに暗号が交換されるこの仄暗い沈黙の事務所の日常が悠一の目に映った。と謂って何を見たというのでもない。そこにはこの時刻にしてはやや多すぎる人数の十人足らずの男が、そっと目を見交わしていたのである。
 (中略)
 昼間や日暮れ前にこうした公園の裏手の小径を腕を組んでそぞろあるく恋人同士は、数時間後の同じ小径が、全く別の使途に供せられていることを夢にも知らない。(中略)昼間何気なくオフィスの恋人たちが腰を下ろして話し合った見晴らし台は、夜になると「檜舞台」と呼ばれるようになり、遠足の小学生たちが遅れまいとして合わない足幅を跳び上がりながら登った小暗い石段は、「男の花道」とその名を代え、公園裏手の長い木下道は、「一見道路」と名称を代える。それらはすべて夜の呼名である。

…この隠微な描写! 「男の花道」とは(笑)。これだけつまびらかに書いているというのは、念入りな取材のたまものだろうか?

 悠一は見聞がひろまるにつれ、この社会の思いがけない広大さにおどろいた。
 この社会は昼間の社会の中では隠れ蓑を着て佇んでいた。友情だとか、同志愛だとか、博愛だとか、師弟愛だとか、共同経営だとか、助手だとか、マネージャアだとか、書生だとか、親分子分だとか、兄弟だとか、従兄弟同士だとか、伯父甥だとか、秘書だとか、鞄持ちだとか、運転手だとか、……それからまた種々雑多の職務や地位、社長だとか、俳優だとか、歌手だとか、作家だとか、画家だとか、音楽家だとか、勿体ぶった大学教授だとか、会社員だとか、学生だとか、男の世界のありとあらゆる隠れ蓑を着て佇んでいた。
 自分たちの至福の世界の到来をねがい、共同の呪われた利害で結ばれ、かれらは一つの単純な公理を夢みていた。即ち男は男を愛するものだという公理が、男は女を愛するものだという古い公理をくつがえず日を夢みていたのである。かれらの忍耐強さに匹敵するものとては、猶太(ユダヤ)民族以外に考えられない。一個の辱められた観念に対する異常な執着の度合においても、この種族は猶太人に似ているのであった。

このしつこいくらいの畳み掛け。これが三島の醍醐味である。


また、同性愛者ならではの、こんな秀逸な嫉妬の描写もあった。金持ちのパトロンとの食事を終えて、レストランを出る場面。

 レストランを出しなに、信孝は悠一の腕にそっと腕をからませた。軽蔑から、悠一はするにまかせた。そのときすれちがった若い恋人同士も腕を組んでいた。学生風の男のほうが女の耳許にささやくのがきこえた。
「あれ、きっと同性愛だよ」
「まあ、いやらしい」
 悠一の頬は羞恥と憤怒のために紅潮した。信孝の腕をふりきって外套のポケットに両手を入れた。信孝は訝らない。こういう仕打ちには慣れっこになっていたからである。
『あいつら! あいつら!』──美青年は歯ぎしりした。『御休憩三百五十円の連れ込み宿で天下晴れて乳繰り合うあいつら! うまく行けば鼠の巣のような愛の巣を営むあいつら! 寝ぼけ眼でせっせと子供をふやすあいつら! 日曜日に百貨店の大棚ざらえに子供連れで出かけるあいつら! 一生に一度か二度、せい一杯の吝(けち)くさい浮気をたくらむあいつら! 死ぬまで健全な家庭と健全な道徳と良識と自己満足を売り物にするあいつら!』
 しかしいつも勝利は凡庸さの側にある。悠一は自分のせい一杯の軽蔑が、彼等の自然な軽蔑に敵わないことを知っていた。

この嫉妬は実感がこもっていて凄まじいと思った。