『放哉という男』

放哉という男

放哉という男

尾崎放哉の師、荻原井泉水が書いた放哉の評伝。放哉が井泉水と最初に出会った第一高等学校時代から、後の京都での再会を経て、須磨寺、小浜へと流れていくところまでが書かれている。
まるで放哉自身が語ったような、心境に深く立ち入った部分もある。これは旧知の仲だった井泉水が、当時の放哉の心中を斟酌してイマジネーションで筆を走らせたものだろう。何にせよ感心したのは、井泉水の文章の上手さだ。今度は井泉水という人に興味が出てきた。


冒頭、放哉の死後に井泉水が一高時代の同窓生と会った時の会話がつづられている。

「ぼくらの同級の中で、大臣になったのも五六人はいるが、今日、世間ではもう名を忘れている。現にはなばなしく活躍しているものは鉄道院総裁の十河*1とか、学習院院長の安部*2とか、参議員の鶴見とか、そのほか今を時めく人たちもまだ数名はいるけれども、もう十年経つとそういう人の名も忘れられてしまうのではないか……」
「そうだな、だが、あと十年経っても忘れられない名もあるよ。それは藤村(操)*3だ。あいつの名は、華厳の滝のあるかぎり忘れられないさ」
「なるほど、何でも第一号というものは、歴史を作った人間なのだからな」
「それからもう一人いるよ、それは放哉だよ。放哉と言っても今は一部の人に知られているだけだが、こないだもある人が尾崎放哉というのは一茶時分の人ですかなどと、時代をごっちゃにしていた。とにかく放哉は歴史的の人物になりきっている」

藤村操も同級生だったとは、初めて知った。この本によると放哉の学年は、夏目漱石に英語も教わっていたのだという。井泉水は放哉らより年はひとつ上なのだが、一級ダブって後に彼らと同級となった。
それにしても当時の一高出身でその後東京帝大を出た人物というと、それこそ上の会話にあるように末は政治家か実業家か、とにかくエリート中のエリート、国を背負って立つ人材の宝庫だったことだろう。そんなエリートコースからドロップアウトした放哉という男が、いかに異様だったかがよくわかる。

   青空のました帽子かぶらず  放哉


放哉が須磨寺から井泉水に書き送った手紙。

 小生の俳句、毎月多すぎて、お目を通されるのに御迷惑のこととは、十分に分かってゐるのです。けれども、出来ただけはあなたに見ていただかなくては承知出来ないのです。いはば、小生のハラの中にあるドロをすっかり吐き出してしまひたいのです。…(中略)芭蕉がある門人に対して「かれ一句の作あらずとも我が高弟なり」と言ったさうではありませんか。小生も、一句を作らないやうな心境にはいってこそ、それは作れないのではなく、作らなくして足るといふ境地に早くなりたいものです。その時こそ彼れ一句の作なくとも、井泉水門第一の作家なりと、同人から認められる時でありませう。…(中略)ほんたうの俳句とは、結局は「ダマッテ居る」ことだと思はれます。ダマッテ微笑してゐるところに俳句がある。といふことは分かってゐるのではありますけれども……。

   沈黙の池に亀一つ浮き上る  放哉

*1:「新幹線の父」十河信二のこと

*2:安部能成のこと

*3:wikipedia - 藤村操を参照