『李白と杜甫』

李白と杜甫 (講談社学術文庫)
高島俊男・著。
氏が東京大学で助手をしていた頃(1972年)に出版したものを、ほぼぞっくりそのまま講談社学術文庫に再録。


国語の漢文の時間なんかでは、李白は飄々とした作風から「詩仙」、杜甫は刻苦勉励した作風から「詩聖」と呼ばれた…などと習いました。この呼称の出典はどこにあるのか寡聞にして知りませんが、お二人が古来中国文学の世界で燦然と輝く二大巨頭であることは疑いようもありません。
国語の時間に「李白は明るくて酒飲みでオモロいオッサン、杜甫は貧乏でクソまじめなジイさん」と習った記憶があるのですが、このたとえは、もしかしたらこの『李白杜甫』を圧縮した高島さんのエッセイ「ネアカ李白とネクラ杜甫」を、当時の国語の先生が読んでいたのかもしれません。


ともあれ、そんなふうに教えられていて、しかも実際に二人の詩の情景があまりに対照的だったので、これまでは

  • 李白→ 一緒に酒を飲んでて楽しそう(なんといっても「白髪三千丈」の作風だし、その臨終に関しては、舟の上で酒を飲んでいて酔いが回り、川面に映った月をつかもうとして転落して溺れ死んだ…という伝説があるほど)
  • 杜甫→ 付き合いづらそう(生涯家族を引き連れて住所を転々とし困窮に苦しんだそうだし、何より詩が貧乏臭い)

と思ってました。


なので、本書の「李杜優劣論」という章で、中国では二人を比較して「杜甫が上」という意見が多く、まあ「よくて同格」という評価が一般的らしい…と知って、かなり意外に思いました。


しかし私も、本書で二人の伝記を読んだあとでは、

  • 李白→ いい加減で成り上がり根性丸出しで、人間としてイヤな奴かも
  • 杜甫→ 世渡り下手で朴訥だけど、家族思いで他人の悲哀のわかる人

という評価に変わってしまいました(笑)。
李白は一種の天才で、融通無碍に言葉を操る型破りの詩人でした。しかし結局は平民出身だったこともあって、名声を求めながら中国の知識人階級である士大夫の世界に馴染めず、無聊をかこつことになったのだと思います。
一方、杜甫は代々官僚の家に生まれたのですが、ナイーブ過ぎて泥臭い政治の世界に馴染めませんでした。それでかえって自分にとって唯一のコミュニケーション手段である「詩」の世界に没頭し、これまで中国になかったような、生活の一部を切り取る新しいジャンルの詩を彫琢し続けたのでしょう。


あと目からウロコだったのが、古詩、楽府、律詩、絶句の違いなどを簡潔に紹介してくれたこと。そりゃ句の数が違うとか対句や平仄うんぬんという話は知ってましたけど、実際にどういうシチュエーションでどのように使い分けられていたとか、そんなの習った覚えがなかったですぜ。
そういうことをちゃんと教えてくれないと、詩を味わうことができなくて、古典を習う意味が無いと思うんですけど!