『花ざかりの森・憂国 ─自選短編集』(その1)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)
三島ヅケ第2弾。タイトルどおり三島由紀夫本人により選ばれた短編集だが、収録された作品の数が結構多いので、感想メモを2回に分ける。

  • 花ざかりの森

三島由紀夫16歳のときに書かれた短編。
自ら巻末の解説のなかで、

…一九四一年に書かれたこのリルケ風な小説には、今では何だか浪曼派の悪影響と、若年寄のような気取りばかりが目について仕方がない。十六歳の少年は、独創性へ手をのばそうとして、どうしても手が届かないので、仕方なしに気取っているようなところがある。

と書いているが、実際この作品は、擬古文的な文体を駆使して(これはこれで驚嘆すべきだが)、自らの文体に酔っている感じを受ける。
でも、後年三島が作品世界で書き続けた「失われゆく日本の伝統美」の継承者として、すでに16歳にして自分を位置付けているようで、そこは興味深い。

  • 中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃

 乞食百二十六人を殺害。この下賤な芥どもはぱくぱくとうまそうに死を喰って了う。殺人者の意思はこの上もなく健康である。
 汚醜のこぞり集まった場所での壊相は、そして、新しい美への意志──といわんよりそれがそのまま徹底した美の証しとみえる。もはや健康という修辞がなんであろうか。
 臭気の風が殺人の街筋をとおりすぎる。人々はそれに気づかない。死への意志がこの美しい帆影ある街に欠けている。

主題は思想家と行動家の対比。哲学する「殺人者」は世の中の「美」が変貌してしまうのを恐れ、閉じた世界から飛び出せずにいる。限定した世界の中で永遠を夢見る。
これと対照される「海賊」は、すべてのものがそこにあるということを、なんらの疑念なしにたやすく信じ込む。彼らにとって「未知なもの」とは「失われたもの」。

  • 詩を書く少年

この一篇は非常に面白かった。次から次へすらすらと詩を紡ぎだす、自分の天才をなんら疑わない、早熟の少年の物語。
ここで描かれる少年の姿は、後の『仮面の告白』の主人公と重なるところが多い。
これらはある意味で、三島本人の少年時代のことだと思う。

 彼は自瀆*1過多のために貧血症にかかっていた。が、まだ自分の醜さは気にならなかった。詩はこういう生理的ないやな感覚とは別物である。彼は微妙な嘘をついていた詩によって、微妙な嘘のつき方をおぼえた。言葉さえ美しければよいのだ。そうして毎日、辞書を丹念に読んだ。

その少年が、自分が実は詩人ですらなかったと気づく、クライマックスの落差が見もの。三島自身も「解説」で次のように書いている。

…彼を襲う「詩」の幸福は、結局、彼が詩人ではなかったという結論をもたらすだけだが、この蹉跌は少年を突然「二度と幸福の訪れない領域」へ突き出すのである。

  • 海と夕焼

あまりにも人工的な構造が鼻に付くところもあるものの、主題はなかなかに深い作品。
奇跡が起こることを、ほとんど無根拠に信じていた少年が、「約束された奇跡」が顕現しないことに覚えた静かな絶望。
別に舞台が中世日本でなくてもよかったと思うのだが、これは何か「日本に流れ着いて寺男になったフランス人」という元ネタがあるのだろうか?

三島先生渾身の一篇。

憂国』は、物語自体は単なる二・二六事件外伝であるが、ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい。しかし、悲しいことに、このような至福は、ついに書物の紙の上にしか実現されえないのかもしれず、それならそれで、私は小説家として、『憂国』一編を書きえたことを以て、満足すべきかもしれない。かつて私は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いたことがあるが、この気持ちには今も変わりはない。
(「解説」より)

この文章にあるとおり、三島先生は相当この作品に思い入れがあったようで、「三島の小説から一つだけ読むなら『憂国』!」とまで言い切っている。あまつさえ、自ら製作
・脚本・監督・主演で、『憂国』の映画化にまで取り組んでいるのだから…。
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しかし本人の思い入れの強さとは関係なく、というよりむしろ思い入れの強さゆえに、私はやはりこの作品は傑作というよりは珍作(よくて怪作)になってしまっていると思う。
本編を通して三島由紀夫が言いたかったことはよくわかるのだが、筆に熱がこもりすぎている。必要以上にリアルに書かれた切腹シーンなど、その最たるもの。


 集中、『詩を書く少年』と『海と夕焼』と『憂国』の三編は、一見単なる物語の体裁の下に、私にとってもっとも切実な問題を秘めたものであり、もちろん読者の立場からは、なんら問題性などに斟酌せず、物語のみを娯しめばよいわけであるが、(現に或る銀座のバアのマダムは、『憂国』を全く春本として読み、一晩眠れなかったと告白した)、この三編は私がどうしても書いておかなければならなかったものである。
(「解説」より)

「解説」で書かれていた、この「銀座のバアのマダム」みたいな読者のほうが、むしろ健全だと思うのだが。