『恍惚の人』

恍惚の人 (新潮文庫)
ふと有吉佐和子の作品を読んでみたくなって、とりあえずタイトルが有名な本作を買ってきた。
ある日突然老人性痴呆(認知症)になった舅をめぐり、共働きの夫婦と大学受験を控えた長男の家族が悪戦苦闘する日々を描き、来るべき高齢化社会への警鐘とも捉えられた社会的問題作。舞台は1960年代の東京で、冷凍食品や洗濯乾燥機がようやく家庭に浸透し始めた頃の話。当時は痴呆や徘徊、寝たきりといった言葉も一般的ではなく、行政サービスもまだまだ充実していなかった。
その頃から比べると今は家庭内の電化製品も相当便利になったし、何より特別養護老人ホームをはじめ当時は無かったサービスも官民ともに(少なくとも数だけは)増えている。だが「誰にでも平等に忍び寄る老い」は当然ながら、「誰が親の面倒を見るか」とか「どうやって、どこで死を迎えさせるか」といったテーマは、当時も今も変わらず新鮮かつ切実に読者に突きつけられる問題だ。
ボケ症状の出始めた父親をようやっと寝かしつけてからの、主人公夫婦の会話。

「あなた、私は、敏が結婚して、もしあなたが死んだら自殺しようと思うわ」
「同じことを考えていたんだな。僕はこの間からずっと、そのことばかりだ。僕は一日でも早く君より先に死のうと思ってるんだ。女房に死なれた亭主は惨めだというが、親爺はそれの極端な例だろう。もし君が死んだら、僕はすぐ後追い心中をする」
 これに似たような会話を二十年も昔に夫婦で交しあったことがあったのを、昭子はぼんやり思い出した。そのときは二人とも若く、恋に燃えていて、会話はともすると現実から離れ、ロマンの香り高いものになった。しかし、同じような会話を、あなたが死んだら私も死ぬわなどということを、ロマンの香りのまったく失せた状態で、深刻に溜息まじりに交しあうことが将来にあろうとは、あの頃想像もしていなかった。