『野菊の墓』

野菊の墓 (新潮文庫)
純愛ブームが到来…というわけではないが、伊藤左千夫の『野菊の墓』を読んだ。ブクオフ105円。


ご存知でない方のためにあらすじを書くと、明治期の千葉県矢切*1あたりの農村を舞台にした悲恋の物語。主人公の政夫が自分の少年時代を回想する形で、幼馴染で初恋の相手だった民子との淡い思い出が語られる。

豪農の息子・政夫は、幼い頃から一緒に育てられてきた民子に淡い恋心を抱くようになったが、15歳の政夫に対し民子は2歳年増の17歳。何かと周囲の目がうるさく、また幼いどうしの恋とて深い間柄になるわけでもない。
2人は周囲によって離れ離れにされ、やがて民子は別の家に嫁ぎに出されるが、流産がきっかけで死んでしまう。民子はその死の床でも、政夫からもらった手紙と写真を握り締めていた。
野菊のような人だった民子。その墓の周りには、政夫によって野菊が一面に植えられた。


ネットでいろんな人の感想を読んでいると、「『世界の中心で、愛をさけぶ』を読んで『野菊の墓』を思い出した」とか、「『セカチュー』に感動した人には、『野菊の墓』もお勧め!」といった記述が散見され、心から「やれやれ」と思ってしまった。短絡的に過ぎる。
政夫と民子が結ばれない、その背景にある社会背景や心情を差し置いて、『野菊の墓』を「純愛」とくくってしまうのは、あまりにも短絡的だ。そこに隠された一種のペーソスは、この物語の最後の次のような一文に、端的に表れていると思う。

 民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。

主人公政夫はこのように、現在している結婚を「余儀なき結婚」と言い放ち、「僕の心は一日も民子の上を去らぬ」と断言している。これは今の奥さんに対して何という明白な裏切り宣言なのだろう! 私はこの一文に行き当たって、急に崖から突き落とされたような衝撃を受けた。
純愛でも何でもなく、政夫の心は過去に生きている。それでいて現実世界では奥さんを娶り、おそらくは子供ももうけてちゃんとした家庭を築いているであろう、この皮肉。
少なくともセカチューにそんな二重世界は描かれていなかったと思うが*2


ところで、私の中では「伊藤左千夫といえば『野菊の墓』、『野菊の墓』といえば伊藤左千夫」という図式ができていたのだが、もともとは正岡子規に師事し、その写生主義を忠実に守った歌人として名をはせていたそうだ*3
伊藤左千夫の代表歌として知られている一首。

牛飼が歌よむ時に世の中のあたらしき歌おほいに起る

搾乳を生業としていた伊藤左千夫が、子規の短歌革新運動に大いに共鳴して37歳のときに詠んだもの。
晩年に小説を物し、なかでもこの『野菊の墓』(初出は「ホトトギス」誌上だった)は夏目漱石に気に入られたそうで、漱石は誰彼へとなく手紙の中で一読を勧めたとか。

*1:細川たかしの「矢切の渡し」で有名な場所。政夫と民子が最後の別れをする場所として、作中にも矢切の渡しは出てきます。

*2:私がセカチューを読んだときの感想は2004年10月19日の日記に一言だけ書いてあります。

*3:伊藤左千夫についてはこちらに詳しいです。「伊藤左千夫について」http://www.city.sammu.lg.jp/sisetu/rekishi/n_rekisi/n_ijin/sachio.htm