『濹東綺譚』

墨東(ぼくとう)綺譚 (岩波文庫)
本棚からあふれる本たちを眺めていて、未読率があまりに高いのに愕然とした。買ったままで放擲してある本を少しでも読んでいかなければ(つれあいが白い眼で私を見ている)。
ということで、本の薄さからとりあえず手にした永井荷風の『濹東綺譚』。
著者自身を投影した麻布在住の悠々自適老人と、墨田川(隅田川)の川向こうの私娼街に住む女との、何のことはないひと夏の恋というかふれあいの物語。銀座のキャフェの女給に飽きて玉の井あたりの遊郭に興を覚える…というのだから、現代に置き換えれば歌舞伎町や六本木のキャバクラに飽きて総武線沿線の地元キャバクラに出かける…みたいなものか。そんで「やっぱ郊外のキャバ嬢のほうがスレてなくていーわ」的な話?
その挙句、女のほうが「あんたと結婚して落ち着こうかな…」などと漏らすと、途端に興が醒めてしまうのだから、いやはや…。
それはともかく、当時(五・一五事件の頃)の東京の下町風俗がとても面白かった。とくに、主人公(=筆者)が職務質問を避けて交番の前を通らないようにするくだりなど、当時の警察官の権力や風紀取締りの一端が垣間見えて面白い。あとやたらと蚊の描写が出てくるところなんかも、いかにも戦前の下町らしい。


ちなみに題名の「濹(さんずい偏に墨)」という字は、江戸後期の儒者・林述斎が墨田川の雅称として考案した国字だそうで、以後文人墨客の詩歌に広く使われたものだという。同様の趣旨で「墨水」という雅称も使われていたとか。
この辺のネーミングセンスは、漢籍に親しんだ儒者や文人ならではのもの。現代でこんな名付けはまずされないな。別に「○州」とか「○東」的、中国風の地名を奨励するわけではないけれど、少なくとも「南アルプス市」とかには、みやびさが全然感じられない。
…あ、でも「ランドマーク+方角」という付け方自体は伝統に則ってるのか?