『数寄者日記 無作法御免の茶道入門!』

数寄者日記―無作法御免の茶道入門!
作家の小林恭二氏が、「無作法、無器用、無教養の三重苦」を抱えながら茶道を始め、最後には茶会の亭主(主催者)まで務めてしまうまでの様子をつづったエッセイ。淡交社の発行する『なごみ』という雑誌に連載されていたものらしい。
先日id:frenchballoonさんにお薦めしていただいたときに、私は「筆者の成長を楽しみに読んでみます」とコメントしたのだが、結論から言うとこの本に書かれた2年間で、筆者はお茶に関しては全くといっていいほど成長はしていない。はじめから覚える気がないのかと思うくらい、袱紗さばきも点前の手順もすぐに忘れてしまうし、なんせ月に一回ほどお茶の先生のお宅に行っているだけのようなので、「稽古している」というよりは「エッセイの取材に行っている」という感じ。
そのくせいきなり由緒ある茶会や茶事に参加したり、茶杓や陶器の専門家の自宅で饗応されつつ貴重な骨董を見せてもらったり、最後には様々なジャンルの第一人者たちの介添えで見事な茶会まで開いている。
これでは、id:frenchballoonさんからこの本をプレゼントされた方でなくても、「本当のお茶の稽古はこんな甘っちょろいもんじゃない!」と不機嫌になるのも無理はないと思う。


ただ私は、これまでこの小林恭二という人を全く知らなかったのだが、俳句を趣味にしているところなども含め、個人的に割と共感を覚えた。今後この人の著書を読んでみようかな。
それにこの一見ちゃらんぽらんな態度の裏に、実は日本の古典文芸や園芸(盆栽?)などに関する少なからぬ知識を蔵しておられるようだ。以下のような記述などにそれが垣間見られ、この人は只者ではないと思った。少し長くなるが引用する。

 この日、日本のやきものについて延々と教わってひとつ感じたことがある。
 それは、日本人の美的センスの中心にあるのは「面白がる」ということだな、ということ。
 誰もが感動するような大芸術作品より、それよりちょっとズレたところにあるものを愛するところが、われわれにはあるのではないか。
 島国的といえば島国的なのかもしれない。あるいは美と対決するという点において、多民族より非力といえるかもしれない。
 しかし、良かれ悪しかれそれが日本人なのだ。もとよりわたしだってそうだ。これまでなんであんな古ぼけた茶碗があんなに珍重されるのかよくわからなかったが、今はなんとなくわかる。妙な言い方だが、完璧でないところがいい。どこかにスキがあった方が愛着がわく。
 が、だからといって二級品でもいいわけではない。二級はいやである。一級で、しかもスキがある作品がいい。
 もとより日本にも仁清やあるいは鍋島焼のように一点の曇りもない芸術作品もある。だが、やはりあれは結局一部のエリートだけのものだ。価格が高いということもあるが、それ以上に近寄りがたい。ああしたものを使いこなせる生活は日本にはないのではないか。

これは一面の真理だと思う。