『茶人たちの日本文化史』

茶人たちの日本文化史 (講談社現代新書)
日本における喫茶の習慣は、奈良時代に中国からお茶の葉が薬の一種として持ち込まれたのに始まり、やがて栄西をはじめとする鎌倉新仏教の僧侶たちによって広められた…というのをこれまで聞いていた。そして、安土桃山時代に村田珠光から武野紹鴎を経て千利休が「わび茶」を大成し、それが大名以下武家たちに浸透したのと同時に、江戸時代には庶民にも親しまれ、明治大正時代には財閥系の新興数寄者により盛んになり、戦後は女性たちが席捲していく…というのが、本邦における喫茶の概史であると認識していた。
そこでひとつ疑問に思っていたのが、「鎌倉から安土桃山までは、どんな風にお茶が飲まれていたのか?」ということだった。
その疑問が、日本における茶の通史を紹介した本書を読んで、ようやく少し得心できた。


本書によるとその時代(鎌倉から室町にかけて)は、当時でいう「本非」という遊び(今日でいう「闘茶」)が隆盛した時代で、幕府によりたびたび禁止令も出されたほどだという。
この「本非」という遊びは、日本で最初にお茶の生産が始まった栂尾(とがのお)の茶葉を「本物」とし、それ以外の産地の茶葉と飲み分けるという当て物の遊びで、当然多くの財物が賭けられていたようだ。
そうしたギャンブルの世界には侠気がつきものなわけで、こうした闘茶を好んだ輩の中には、ばさら(婆娑羅)大名と呼ばれた佐々木道誉などもいた。この辺の趣味が、後の「数寄茶」であるとか、信長・秀吉あたりの時代の茶の湯に受け継がれているのだろう。
またこうした闘茶や初期の茶会は、大名や公家の屋敷の一角に建てられた「会所」という棟で行われていたそうで、これが後の茶室につながっているのだという。


また本書で初めて知ったのだが、すでに江戸時代半ばには家元制度下での茶の湯は硬直常態にあったようで、それを批判する動きとして、文人たちが煎茶を広く愛好していたそうだ。さらに明治以降も柳宗悦が家元制度やその好みによる茶器の審美眼について手厳しく批判している。


この日記で度々繰り返していることだが、こうした茶の湯の歴史をひも解くたびに、お茶はもっと自由かつアヴァンギャルドであるべきだという認識を新たにする。