口伝ということ、現代に茶を愉しむということ。

お茶の稽古。先週教わった、盆点前での重ね茶碗をもう一度。だいぶ忘れていたので、稽古が終わってからすぐにメモに残しておいた。
点前の手順などをブログやホームページに書き付けている人を見かけるが、あれは本当はよくないのではないかと思う。日本のお稽古事の大半は、口伝が基本になっているから。
一対一の緊張した場における、言葉のみならず身体の動作を含めた伝授を受けることにより、所作を徹底的に自分の体にしみこませることが、まずは必要とされるのだろう。考えるのではなく感じるのだ(「Don't think,feel.」)。稽古の後でメモを取るのも、厳密に言えばよくないことかもしれない。
そういった精神論はおいておくとしても、ネットで調べて点前をマスターする人が出てくると、家元制度というのが崩れてしまう。まあしかし流派の家元はたいてい点前を図解した書籍を出しているし、その辺はもう、なしくずしなのかな。


ちなみに私は茶道というものの形式面には実はあまりこだわりがなくて、お茶は各人が美味しいと思える方法で、客をもてなす心を込めて嗜めばいいと思っている。その場や人にそぐうのならば、モンドリアンの画を飾りittaraの茶碗で茶を点ててもいいじゃない。禅語の軸や唐物の茶碗とかって、茶の湯の成立した安土桃山時代にはそういうもん(コンテンポラリーアート)だったと思う。
それでも私が点前や形式を必死に体で覚えようとしているのは、そこから「心」を感じ取るためだ。格好つけて言うと。