『恋愛と贅沢と資本主義』

恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)
先日『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』という新書を読んだときに、「エミール・ゾラの『ナナ』について論じた章が面白かった」と書いた*1
その章で引用されていたのが本書、ヴェルナー・ゾンバルトというドイツの経済学者が書いた『恋愛と贅沢と資本主義』だった。気になったので、早速図書館で探して借りてみた。
…ちなみにゾラの『ナナ』そのものは、近所の古本屋でなんと50円の捨て値で売られていたのを購入。ゾラさん、かわいそう…。


内容については、id:harowanwanさんのこちらのエントリに詳しいのでご参照いただきたいが、ものすごく大雑把に要約してしまうと、「ヨーロッパにおいて資本主義は、女に贅沢品をみつぐ男どもの経済活動によって誕生した」といった感じの話。
ゾンバルトはそれを、中世から近世にかけてのヨーロッパ各国(とりわけフランス)の宮廷における奢侈についての記録を事細かに挙げることで、後の近代の資本主義へとつながる経済構造の変化を実証しようと試みている。

順に並べると、こんな感じで資本主義化が進んでいったとしている。

  1. 新興成金・新興貴族の勃興
  2. 16世紀から18世紀にかけての大都市の形成
  3. 愛の世俗化
  4. 愛妾たちのための贅沢な散財
  5. 都市における手工業に奢侈の影響で資本主義化が進む

 奢侈工業が資本主義的組織にむいていた理由は、第一に、生産過程の性格にある。ほとんどの場合、奢侈品はしばしばはるか遠方の国々から高価な原料をとりよせねばならない。
 …(中略)資本力の十分ある人間が利益を受けるのだ。

 第二に、奢侈工業を他の工業に先がけて資本主義に駆りたてる理由は、販売の性格にある。…(中略)すなわち、貴族ふうなだらしなさのために、支払いの段になると、しばしば奢侈品の生産者が損をすることになるため、奢侈品の生産者は、ほかの製品の生産者以上にしっかりした資本をかかえていなくてはならないということだ。

 このように事物の本質に根ざす一般的理由として、第三の理由がある。すなわち、すべての奢侈工業はヨーロッパ中世を通じ、王侯あるいは事業が好きな外国人によって人工的につくられたという歴史上の理由である。…(中略)意識的に外国人によって基が築かれたこれらの工業は、いずれも当初から合理的色彩を帯びていた。これらの工業はほとんどの場合、古めかしいツンフトめいた制限の枠外におかれ、しばしば古巣に御輿をすえた古来からの手工業者の利益と対立した。

 そうはいっても、こうした経済組織を存続させるために、どうしても満たされなければならない最も重要な条件は、その組織の本質にぴったりあった販売であった。(後略)
 ここで第四の理由として、大量販売の他の可能性が登場する。より価値の少ない商品の大量販売、あるいは組み合わされた商品の大量販売は、ほとんどの場合、ずっと後世になって、はじめて実現したことである。したがって資本に転化することを求める財産は、ただ奢侈工業のための設備とするしかなかった。

ゾンバルトの筆をかりるなら、「こうして、すでに眺めてきたように、非合法的恋愛の合法的な子供である奢侈は、資本主義を生み落とした」。
その論理的整合性はともかくとして、中世から近世にいたるヨーロッパ各都市・各宮廷における贅沢三昧な生活ぶりがこれでもかというくらい列記されているのが、個人的にはとても興味深かった。


作者のゾンバルトは19世紀末から20世紀半ばにかけて活躍した経済学者で、マックス・ウェーバーと並び称されたり、日本でも戦前は「マルクスゾンバルトか」と言われたりしていたそうだが、(「訳者あとがき」によると)ウェーバーのような理論的厳密さが無く、審美的・ロマン的傾向が強すぎたため、戦後めっきり評価が下がってしまった。
ところがここにきて再び注目を集めているのは、日本のバブル期を思い返すまでもなく、「女性に貢ぐ奢侈によって経済は動いている」といった慧眼(?)が、何も中世〜近代ヨーロッパだけに当てはまる話ではないと思う人が多いためだろう。


この本を読んでいたら、表紙を見たつれあいが「これ『ブランコ』だね」と言うので、何を見たままのことを言っているのかと思ったら、表紙カバーに使われている絵が「ぶらんこ」というタイトルの絵だと言っていたのだった。

夫が揺らすブランコに乗って、愛人の貴族にスカートの中身を見せつけながら靴を飛ばす貴婦人…。これ以上『恋愛と贅沢と資本主義』に相応しい絵はないかもしれない。
このJ・H・フラゴナールの「ぶらんこ」という絵については、以下のサイトに詳しい解説があるので、ご参照を。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/051008.htm