『武士から王へ お上の物語』

武士から王へ―お上の物語 (ちくま新書)
私が鎌倉幕府に強い関心を持つ理由の一つは、それが日本で最初の武家政権だから。中世以降ほとんどの時期が武家政権下にあったわれわれ日本人の、その原点がここにあるのではないかと考えるからだ。
しかしここで「武家政権下にあった」と言うときふと疑問に思うのは、中世から近世にかけてもずっと存在し続けた天皇という存在をどう考えればいいのか、ということだ。
天皇(というか上皇)に取り入り朝廷内で出世を図った平清盛に対し、新たな政治機構「幕府」を打ち立てた源頼朝の狙いは何だったのか? 足利義満明王朝から「日本国王源道義(げんどうぎ=義満のこと)」として認められたが、その国王と並び立つ天皇の存在意義は何だったのか? 織田信長が道半ばで命を落とさなければ、果たして天皇は生き残れたのか? …等々、考えていくと実に興味深い。
その一方で、天皇自体ももちろん絶対的な存在ではなかった。実際のところ天皇親政が行われたのは古代を除けば後醍醐天皇の時世くらいだし(それ以外のほとんどの時期は摂関政治院政だった)、その時々の武家政権が即位に容喙することを許す弱い立場にあるかと思えば、反対に武家政権へ権威を与える存在でもあった。
本書はそうした日本中世以降の政治構造を、並立する「王権」という考え方で読み解いた意欲作。


易姓革命が行われなかったことが日本の特徴なのだが、その一つの弊害として、客観的な立場で書かれた国史の編纂が、901年に編まれた『日本三代実録』で止まってしまっていることが挙げられる。筆者によれば、これは同時に権力者たる朝廷(上皇天皇・貴族)の、庶民に対する統治の放棄にもつながっていくという。
これに対し鎌倉幕府は、御恩と奉公からなる「主従制」と、御成敗式目などの制定で公平な訴訟を行い領主から庶民に至るまでをカバーする「統治権」の2つを兼ね備えることで、朝廷に替わって支配力を持つようになった。続く足利、徳川もしかり。
そしてそれは、天皇家のように「血」を守ることを志向するのではなく、主従制と統治権を備えた将軍の「家」の存続こそが大事とされるため、三代であっけなく途絶えた源氏将軍のあとも、摂家将軍親王将軍を招聘して北条氏鎌倉幕府を主宰していくことが許されたという筆者の整理は、私には得心のいくものだった。


それでも鎌倉・室町両幕府が天皇制を残したのは、「当知行」の否定に必要だったから、というのが筆者の説だ。「当知行」というのは、実力行使で居座ることで領地の所有権を主張する考え方だが、幕府は天皇(および貴族)の権力を借りて「それは荘園の一部だから実力行使による占領は認めない」という裁定を下すことができた。在地領主は、あくまで荘園の下司という立場で土地の支配権を許されたというわけだ。
その意味で2つの幕府は筆者が「職の体系」と呼ぶ旧来のパラダイムを逸脱しないものだった。


さらに筆者は、朝廷と幕府に並び立つ中世の第3の「王権」として寺院勢力を挙げる。統治の意思を持ちながら武力も持たない朝廷、統治の意思も武力も兼ね備える幕府、そして統治の意思を持たないながら僧兵という武力を持つ寺院勢力…という三すくみの状態にあったというのだ。
ところが鎌倉新仏教以降、寺院勢力は禅宗に代表される武力を放棄する勢力と、一向宗のように武力を増強し統治の意思を強くする勢力…つまり幕府と同じ志向を持つ勢力とに分裂していく。幕府(を目指す武家)が一向宗と対峙したのは、必然である。
やがて三すくみの「王権」は武家によって収斂されていく。

…全国に拡散していた王権は一つに統合され、日本という国家が創出される。すべての国民が将軍の王権に服する者として位置づけられるとともに、王である将軍はすべての国民に対して責任を負う。(中略)唯一の王が君臨し、かつ統治する新しい日本が生まれる。そして、中世という時代が終焉を迎える。