『色男の研究』

色男の研究 (角川選書)
現代に「色男」がいなくなったのは何故か? …筆者は色男の起源や類型を遠く平安時代から江戸時代までたどり、見かけだけではない、手練手管(というと語感が悪いが)に長けたモテる男たちの系譜を検証していく。
しかしこうしてかつて日本に(そして中世ヨーロッパにも)あった「色男」たちの「恋の技術」は、近代西欧ピューリタニズムに影響を受けた「恋愛」という観念によって駆逐されてしまう。筆者は北村透谷田山花袋を例に取りながらその様子を紹介していくのだが、西欧思想の影響を受けたことによって、色恋は「技術(=知性?)」を使うものではなく、「(心が)落ちていくもの、狂っていくもの」になってしまう。筆者はその行き着いた先が、たとえば相手の気持ちを全く考えないストーカー行為であるとか、他者とのコミュニケーション能力が不足したオタク的な人々の出現、つまりは自己完結に閉ざされたディスコミュニケーション時代の到来に他ならない、と言いたいらしい。
しかし、業平からドン・ファン西鶴から、荷風、透谷、花袋らを引き合いに出してくだくだと述べた後でたどり着いた結論が、「色男に代表される恋の駆け引きを、もう一度現代に復活させたらどうか」…というのは、拍子抜けというか竜頭蛇尾というか…。
ディスコミュニケーションで引きこもっているよりも、マニュアル本を片手にでもいいから恋をしよう=他者に働きかけていこう! みたいなことを言いたいのだと思うのだが。そりゃそうかもしれないけど、わざわざ色男を引き合いに出さなくてもいいのでなないかと思ってしまう。


ただ、個々の色男に関する記述には面白いものが多々あった。
たとえば、江戸時代の遊郭通いをする粋人には『色道大鏡』(藤本箕山・1688年)というマニュアル本があったようで、この時代の色男には、色里でモテるための様々な作法や予備知識が必要だったそうだ。

…もっとも、「色道」という哲学の究極的に説くところはより高踏的である。『色道大鏡』の勧める、より高次な粋の境地は、だまされたふりをして遊ぶ──したがって、散財する──ことである。さらに、もっとも高度な粋の境地は、すべてを悟って、遊郭通いをやめることである。つまり、恋の究極に恋の消失があるという逆説である。この説は、吉野太夫が言ったとされる有名な言葉、「吉原に来る者は野暮」にも表現されている。

300年以上も前の遊び人哲学に、現代の私もハッとさせられる。
キャバクラに通って喜んでいるうちは初心者、旬の話題を仕入れてオシャレな服を着て女の子を店外デートに誘おうと必死になるのは中級者、同伴やアフターでいいもの食いに行ってお店でも高い酒をあけてモテるのが上級者、しかし最終的にキャバクラ輪廻から解脱した人はキャバクラに通わなくなる…と翻訳してみると、なかなか興味深い*1


ところで筆者のヨコタ村上孝之氏、私が大学の文学部生だったときに授業を持っていた方なのだが、シラバスで名前を見て「この“ヨコタ村上”さんの授業って講師が2人いるのか?」とか思ったものだった。その同時期に講師として『もてない男』の小谷野敦さんも在籍されていて、こちらは授業を受けたことがある。ご両人とも比較文学が専門。
「色男」と「もてない男」の対比もなかなか興味深いこの2人、どういうわけか私の記憶の中では仲が良い…ということになっていたのだが、小谷野氏のブログによると「絶縁状態」ということになっている。
ヨコタ村上氏が何故こういう名前を名乗っているのかの経緯も含めて、その辺のことは以下の小谷野さんのエントリ(一方的記述だが面白い)を参照のこと。
ふまじめな大学教師の肖像 - 猫を償うに猫をもってせよ

*1:この分類で行くと、私はすでに解脱者。南無。