『豊饒の海(四) 天人五衰』

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)
読み終えた。これでひとまず、自分がなぜ三島由紀夫の小説が好きなのかを探っていた「三島漬け」の旅は終了としよう。実に半年かけて三島由紀夫の本18冊、関連図書3冊を読み、映画1本を見たわけだ。


四部作の最終巻で、本多は徹底的に醜くなっている。「老醜」という言葉そのもの。
その年老いた本多が、清顕、勲、そしてジン・ジャンと続いた輪廻転生の接ぎ穂として見出した少年・透は、本多そっくりの「見る人=思考者」だった。
つまり透は、愛や憂国、肉体のために死んだ「行動する人」だった清顕以下の3名とは、対極の存在といえる。本当の生まれ変わりかどうかは怪しい。


しかしここにきて、輪廻転生それ自体はもはや主題ではなくなってきているのかも。
三島由紀夫は第三巻「暁の寺」でさんざん唯識論と輪廻転生の問題を突き詰めて、どこかで現実世界を吹っ切ってしまったのではないだろうか。それは言ってみれば、現世では達成できなかったことの、来世への願掛けだったかもしれない。


本多は清顕たちの輪廻転生を振り返ってこんなふうに思う。

 ……それにしても、或る種の人間は、生の絶頂で時を止めるという天賦に恵まれている。俺はこの目でそういう人間を見てきたのだから、信ずるほかはない。
 何という能力、何という詩、何という幸福だろう。登りつめた山巓(さんてん)の白雪の輝きが目に触れたとたんに、そこで時を止めてしまうことができるとは!

これらの詠嘆はそのまま、戦争で生き残ってしまい、ゆっくりと首を絞められていくような戦後の日本社会の生活を味わった、三島由紀夫自身の嘆きなのではないか。
「このまま生き続ければ、きっと本多のようなみじめな老境を迎えることになる」…そう思いつめた結果の、無謀な決起、そして割腹自殺だったのだろうか。

 九月のはじめ家へかえったとき、百日紅の満開の花が、そのあたかも白癩の肌のように円滑に磨き上げた幹に映じたのを見るのを、たのしみにしていたのに、いざかえってみると、百日紅のない庭があった。前の庭とはまるでちがってしまったその新らしい庭を作ったのは、他ならぬ阿頼耶識にちがいない。庭も変転する、と感じた瞬間に、別なところからどうしても制御できない怒りが生じて、本多を叫ばせたのだが、叫んだときから本多は怖れていた。

「どうしても制御できない怒り」を押さえてしまったとき、三島由紀夫は本編の最後で本多がぼんやりと思う、「何もないところ」へ辿り着いてしまったのだろう。


本筋とは関係ないが、一つ面白い記述を見つけた。

 …税法が変らぬ限り、あらゆる起業が自己資本による経営に立ち戻らぬ限り、銀行が融資の担保に土地を要求することをやめない限り、日本の国土というこの巨大な質草は、古典的法則なんかには目もくれずに、値上りをつづけるにちがいない。その値上りが止まるのは、経済の発展が止ったときか、あるいは共産党の政府ができたときでしかない。

三島が時代を透徹する目を持っていたかどうかはわからないが、この記述はそのまま後のバブル到来と崩壊を予言しているかのようだ。