『豊饒の海(二) 奔馬』

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)
三島漬け第16冊目。
四部作の第一巻『春の雪』で「また会うぜ」と言い残して死んだ主人公・清顕が、輪廻転生して憂国の青年剣士・勲に生まれ変わっている。
ここに来て四部作の四部作らしいところがいろいろと出てきている。前作で現れた人物が、思わぬ場面で年老いた姿で現れたり、また次作へとつながる伏線のようなものが多々提示されたり…。
しかしあえて言うと、それらがいちいちあざとく思われた。中世の物語を下敷きにしているのだから、これくらいのわざとらしさは当然なのかもしれないが…。もしかすると三島由紀夫は、長編(なかんずく大長編)を書くのが苦手なのかもしれない。生涯にただ一作しか書いていない大長編を前にしてそんなことを言うのは、ちょっとアンフェアだろうか。


ちなみに本編で語られている「神風連(しんぷうれん)事件」。その概略はwikipedia「神風連の乱」熊本城の公式サイトあたりを参照のこと。
この神風連に深く関心を持った三島由紀夫は、丹念な取材をもとに「神風連史話」なる架空の短篇小説を、文庫版で実に55ページも割いて本作に掲載している。
この取材旅行については、福島次郎の『三島由紀夫 剣と寒紅』に詳細が書かれていて、その内容の悪趣味性はともかくとして、なかなかに興味深い。
三島由紀夫―剣と寒紅
三島由紀夫がメッシュのスケスケのシャツを着て肌を露出させながら街を闊歩した…という話をはじめ、「今回の旅行は隠密で」と自分で言っておきながら剣道場で稽古をすることを地元マスコミに漏らしていた話だとか、海岸でふんどし一丁になって日焼けして地元民に奇異な目で見られた話だとか、日本刀を一振り入手してご機嫌だった話とか。*1


勲から「神風連史話」の冊子を貸してもらった本多が、その内容と勲の直情性を鑑みて「これは危険だ」と思い、早まった行動をしないよう優しく訓告する手紙。

 歴史を学ぶことは、決して、過去の部分的特殊性を援用して、現在の部分的特殊性を正当化することではありません。過去の一時代の嵌め絵から、一定の形を抜き出して来て、現代の一部分の形にあてはめて、快哉を叫ぶことではありません。それは単に歴史をおもちゃにすることであり、子供の遊びです。

神風連の物語は立派で美しい物語だが、それを現代に安易に結びつけるのはどうかと思う…と語っている。これは、本多一流の論理に透徹した歴史観であり、また同時に三島自身の論理的な部分の声でもあると思う。


政商・蔵原の話

 日本国民とは何ぞや、という定義は人によっていろいろちがいましょう。私に言わせれば、日本国民とはね、インフレーションの災禍に無知な国民ということになります。インフレが進行したら換物して財産を守ろう、という程度の知恵すらない。われわれはナイーヴな、無知な、情熱的な、感情的な国民を相手にしていることを、片時も忘れてはなりませんな。身を守ることすら知らぬ国民は美しい。たしかに美しい。私は日本国民を愛しておりますからして、この美しい無知につけ込んで人気を得ようとする手合を憎まずにはいられない。

この「美しい国民」という表現が、最近某宰相がスローガンにしている「美しい国」という表現と重なって見えて、今も昔も為政者はこんなことを考えるのだなあ…と思って、ちょっと暗鬱な気持ちになった。


大阪能楽殿で「松風」を見ながら本多

 時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。(中略)
 本多は、わが身をふりかえると、たしかに自分は意志を持った人間だが、その意志で、歴史と云わぬまでも、社会の何かを変え、そこに何かを成就したか、と考えて疑いなきを得ない。…(中略)…彼の意志決定自体に、どれだけ純粋な理性が働いているか、あるいはしらずしらず時代の考えに押し動かされているか、確たる判定は下しようがないのである。
 一方、現代の周辺をつぶさに見廻しても、清顕という一人の青年、あの情熱、あの死、あの美しい生涯が与えた影響は、どこにも残っていない。あの死の結果、何かが動かされ何かが変ったという証拠はどこにもない。それはあたかもものの見事に歴史から拭い去られてしまったように見えるのだ。

この、お能を見ながら本多がいろいろと考えている場面に、「豊饒の海」四部作の底流にある、三島由紀夫の輪廻転生観の鍵が隠されているように思った。


勲の最期

 勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突っ込んだ。
 正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。

それにしても三島由紀夫は、なんと切腹が好きなのだろう。

*1:そしてなんといっても、投宿先での情事の話とか…。この本については8月28日の日記でも触れています。