『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(その2)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)
この本で橋本治氏は、三島由紀夫をその生きた時代と深く結びつけて考えている。
当たり前のことのようでいて、三島くらいの大作家になってしまうと(まして自身が死んで作品だけが残ると)、時代背景や作者の身体から作品だけが切り離されて分析されがちなので(それはそれで真の批評ではあるのだが)、この視点は新鮮に感じた。

 なにが三島由紀夫をスターにしたのか。その最大の理由は、三島由紀夫が生きていた時代の人間が、みんな文字を読んでいたということである。みんなが文字を読んで、「すごい文章が書けるということはすごいことだ」という常識が、世の中には前提としてあったのである。その前提は、「すごく才能のある作家=スター」を可能にする。三島由紀夫は、日本人が文字を読んで、そこから「品格」とか「知性」を学習していた時代に、手の届かない高嶺にある人だった。

「日本人が文字を読んだ時代」とは、何を指しているのか? それはとりもなおさず「近代」のことなのだろう。
近代的病理を内包したまま、いつまでたっても「戦後」が始まらない「戦後」という時代に、三島由紀夫とその同時代人は生きていた。

三島由紀夫は、すべてを自分一人で引き受けなければならない人だった。それは、「すべてを自分一人で引き受けなければ気がすまない」というようなものではない。三島由紀夫にとって、「近代的知性の持ち主」とは、「すべてを一人で引き受ける孤独な存在」だったのである。そしてそれは、三島由紀夫一人の病理ではない。三島由紀夫を「えらい人」にしていた時代に生きる人間すべてに共通しかねない病理だった。

そしてそこでは、「他者」の存在が決定的に欠落している。


三島由紀夫の小説のなかに、「他者」が、そして何よりも、「恋愛」というもっとも「他者」と関わりあう現象が現れないのは、このためだと橋本氏は述べる。

 三島由紀夫が「他者」の扱いに慣れていないのは、三島由紀夫をその同時代の男達にとって、「他者」というものが、すぐに消えてしまうものだったからだろう。…(中略)…「一人の住人しか持たない世界」が、いくつもいくつも平行して存在する。「定員一」の世界はいくつもあって、しかしこの世界は相互に交わったりはしない。…(中略)…天動説の男達は、広大な宇宙に浮かんでたった一人の人間しか存在させない孤独な惑星の住人なのである。なんだかとても悲しい世界観であるとしか、私には言いようがない。