『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(その1)

「三島由紀夫」とはなにものだったのか (新潮文庫)
私が本を持っている作家のなかで、誰(の作品)が一番好きかというと、それは文句無しに三島由紀夫だ。
なぜ三島由紀夫(の作品)が好きなのか? それを考え直す時期に来ていると、この前愛息を見ながら唐突に思った。「この子に説明できるようにしておかなければ…」と。よくわからないのだが、30歳をすぎたことと子供ができたことによって、自分の時代が一区切りした心持ちがしているのだ。


それはともかく、これから数ヶ月にわたって、三島由紀夫の小説をダラダラと読んで行こうと思っているのだが、その準備段階として、2冊の本をまず読むことにした。その1冊が、橋本治の『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』。


橋本治」が「三島由紀夫」を語る…この時点で我々には、すでに“ある種の期待”が生じる。

 私が三島由紀夫の小説に手を出したのは、『豊饒の海』が最初ではない。高校一年が終わりかける十五の年──それは昭和三十九年の春だが──『禁色』を読みかけた。私が読もうとした三島作品の最初は、『禁色』なのである。十五歳の橋本治が『禁色』を読んでいるというのは、ある種の人にとっては「待ってました」的なものもあるのかもしれないが、私はこの長い小説がどういうものかを知って手を伸ばしたわけではない。なんにも知らなかったのである。

ここで書いている、「ある種の人にとっては『待ってました』的なもの」が、まさにそれ。


この本を読む意義を先走って書くならば、「“仮面”をつけざるを得なかった、そしてそこから全てが始まった(そして終わった)作家・三島由紀夫」と、「“仮面”などつける必要のない(というかその必要性をまったく発想しなかった)橋本治」という、ある2人の同性愛者の対比が見られるところだろうか。