『豊饒の海(三) 暁の寺』

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)
第二部奔馬で「ずっと南だ。ずっと暑い。……南の国の薔薇の光の中で。……」と言い残して割腹自殺した勲。その生まれ変わりが、なんと今度はタイ王国の王女、ジン・ジャン(月光姫)として本編に現れる。
本多はある訴訟を抱えてタイを訪れ、そこで前世の記憶を持つというジン・ジャンに出会うが、輪廻転生の証であるホクロを見つけることはできない。その後インドへ旅し、母なるガンジス川と、そのほとりで焼かれる死体、その傍で生きていく人間…という、「生き物の業(カルマ)」を目の当たりにしてしまった本多は、仏教の唯識論で説かれている輪廻転生を繰り返す存在の源「阿頼耶識」について深く考えるようになる。
輪廻転生とは阿頼耶識の発露なのか、それとも「見る」「考える」人間の理性こそが阿頼耶識の逆の意味での証明なのか。

 第七識までがすべて世界を無であると云い、あるいは五薀悉く滅して死が訪れても、阿頼耶識があるかぎり、これによって世界は存在する。一切のものは阿頼耶識によって存し、阿頼耶識があるから一切のものはあるのだ。しかし、もし、阿頼耶識を滅すれば?
 しかし世界は存在しなければならないのだ!
 従って、阿頼耶識は滅びることがない。滝のように、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に奔逸し激動しているのである。
 世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れている。
 世界はどうあっても存在しなければならないからだ!
 しかし、なぜ?
 なぜなら、迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りへの機縁が齎されるからである。


こうしてこの物語の主題は輪廻転生なのだが、作中では人間の輪廻転生だけでなく、場所についての輪廻転生も語られている。清顕の家(どうも渋谷の道玄坂を上りきったところにあったらしい)は戦後の焼け野原の中で往時の姿を瓦礫の山に変えており、そこで本多は清顕と聡子の逢引を導いていたあの蓼科の老いさらばえた姿に出会う。


しかしそこから、本多はどんどん変態化していく。何なのだろうか、この落差は。
公園の茂みで若いカップルの情事を覗き見するのを趣味としていた本多。
新築した別荘で、書斎の本棚にのぞき穴を開けて隣のゲストルームを覗く本多。
本屋で縛られた女の写真を見ながらポケットに手を入れて自慰行為をする青年を見つける本多。
金の孔雀の胴に全裸でまたがり空を舞いながら放尿するジン・ジャンを夢見る本多。
ジン・ジャンの寝たベッドの匂いをかき縮れ毛を見つけて喜ぶ本多。
…いずれも変態としか言いようが無い行動なのだが、すべてに共通しているのは、本多は「見る」側であるということ。つまり「行動する」側では決してないのだ。それはまさに、三島由紀夫本人の苦悩だったのではないだろうか。
この『暁の寺』に至り、本多はついに物語の中心となると同時に、そのまま作者の化身となってしまったようだ。
その証拠に、以下のような記述には、『豊饒の海』四部作を書き上げた後に割腹自殺した三島由紀夫の、心の叫びがこめられているような気がしてならない。

 勲の死ほど、純粋な日本とは何だろうという省察を、本多に強いたものはなかった。すべてを拒否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもっとも生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生きる道はないのではなかろうか? 誰もが怖れてそれを言わないが、勲が身を以て、これを証明したのではないだろうか?

 飛翔するジン・ジャンをこそ見たいのに、本多の見る限りジン・ジャンは飛翔しない。本多の認識世界の被造物にとどまる限り、ジン・ジャンはこの世の物理法則に背くことは叶わぬからだ。多分、(夢の裡を除いて)、ジン・ジャンが裸で孔雀に乗って飛翔する世界は、もう一歩のところで、本多の認識自体がその曇りになり瑕瑾になり、一つの極微の歯車の故障になって、正にそれが原因で作動しないのかもしれぬ。ではその故障を修理し、歯車を取り換えられたらどうだろうか? それは本多をジン・ジャンと共有する世界から除去すること、すなわち本多の死に他ならない。

これはつまり、理想を成就するためには自分をこの世から無くさなければならない…ということだ。


本筋には関係ないが、こんな表現は三島由紀夫ならではだと思った。

 日独伊三国同盟は、一部の日本主義の人たちと、フランスかぶれやアングロ・マニヤを怒らせはしたけれども、西洋好き、ヨーロッパ好きの大多数の人たちはもちろん、古風なアジア主義者たちからも喜ばれていた。ヒットラーとではなくゲルマンの森と、ムッソリーニとではなくローマのパンテオンと結婚するのだ。それはゲルマン神話とローマ神話古事記との同盟であり、男らしく美しい東西の異教の神々の親交だったのである。