“インテリ”と”非インテリ”と
今回、映画というメディアで映像と音声で同じ内容を確認したことで、当時の熱気や、三島も学生も最初はそれなりに緊張していた様子、そしてそれが次第に歩み寄り四つに組み、最後は(議論が噛み合わないなりに)何か充実した感じで散会した…という様子が見て取れて、興味深かった。
たまたま同じタイミングで、梅宮辰夫主演の「不良番長」という映画を見ていたのだが、1968年の公開ということで、あとから思えばまさに東大安田講堂立てこもりの年の作品だった。
梅宮辰夫率いる愚連隊が、のっけから海辺でカップルを強襲して女性を集団レイプするわ、新宿で引っ掛けた女の子を夜の街に売り飛ばすわ、ヤクザ相手に切った張ったの掛け合いをするわ、もう無茶苦茶なのだが、これがヒットしてシリーズ化していったらしい。
東大で三島由紀夫と全共闘が討論していた同時期に、「不良番長」「愚連隊」の世界も(もちろんかなり誇張されたフィクションとはいえ)若者たちに人気を博していた、というのもまた事実なのだ。
900番教室の討論は、攻撃的な学生たちに対し、どこまでも交わらないながらもどこか交われる接点を見つけ出そうと真摯に向き合う姿勢の三島…という図式で、これはこれでかなりスリリングでもあり見応えもあり、私なりにも感じるところはあったのだが、たった一つの違和感があったとすれば、「ここに参加しているみんな、教養豊かな知性を信じる知識人である」というところだろうか。言うまでもなく、こんな映画を喜んで見に行っている私もまた(到底及ばないながらも)彼らと同じ知性を信じる側の人間だ。
そこで思うのだが、新宿でたむろする「不良番長」やヤクザたちに、この討論会のテーマは果たしてどうとらえられるのだろうか? 東大の学生も三島由紀夫も、愚連隊たちに届く「言葉」「行動」は持っていたと言えるのだろうか…?
分断などというつもりはないが、これは現代にも(自分にも)跳ね返ってくる問いだと感じた。
討論会の最後で、三島由紀夫は学生たちにこんな言葉を残していった。
そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。
映画も最後、「900番教室には熱量と敬意と言葉が満ちていた」といったまとめ方をしていた。
言葉の比喩として 、お互いの思想への敬意を熱量と表すのであれば、熱量とはエントロピーの増大とともに拡散し消えていくもの…といった比喩もまたできるのではないか。
あの時代の駒場に、新宿に、そして日本のどこかにあった熱情は、いまは冷めてはいるが日本社会に偏在しているのかもしれない。
それこそ、エントロピーの比喩にもう一つ悪ノリして言うなら、「言葉」のエントロピーは熱情よりは増え方が遅いのかもしれない。そのように思っていたからこそ、三島は(文学者は)「言葉」を信じていたのではないだろうか。