『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』

ただマイヨ・ジョーヌのためでなく
自転車競技選手ランス・アームストロングの自伝。
アメリカチームとして史上初めてツール・ド・フランスを優勝するなど、数々の栄光を勝ち取った選手ではあるが、原題は「it's not about the bike」。選手としての絶頂で精巣ガンを患い、生存はほぼ絶望視されていたところから奇跡の生還、そして何と自転車競技にカムバックし再びツール・ド・フランスを制するという、すさまじい半生を語っている。

断言していい。癌は僕の人生に起こった最良のことだ。なぜ僕が癌になったのかはわからない。けれども癌は不思議な力を与えてくれた。僕は癌から逃げる気はない。人生でもっとも重要な、人生を形作ってくれたものを、忘れたいと思う人などいるだろうか。


宣告は急に訪れた。漠然とした体調不良と、睾丸のふくらみを自覚していたランスは、ある日自宅で大量に血を吐き病院で検査を受ける。

忙しい一週間だった。水曜日に癌の診断が下され、木曜日に手術を受け、金曜の夜に退院し、土曜日に精子を銀行に預け、月曜の朝に記者会見を開いて睾丸癌であることを公表し、月曜の午後には化学療法を始めた。今日は木曜で、癌は脳にある。敵は思っていたよりずっと手強いのがわかった。これまでのところ、良いニュースは一つもない。癌が肺に見つかった。第三期だ、保険がない、そしてついに癌は脳に転移している。

どうして自分が? どうして他の人ではなく自分が? でも僕は、化学療法センターで僕の隣に座っている人より、価値があるわけでもなんでもないのだ。そもそも価値があるかどうかなんていうこと自体、おかしいのだ。

このようなどん底から返ってきた本人だけに、次のような言葉は非常に重く響く。

 何事も不可能なことはない。良くなる確率が九〇パーセントと言われようが、五〇パーセントと言われようが、一パーセントと言われようが、信じて闘うことだ。闘うということは、入手可能な情報で武装し、第二、第三、第四の意見を聞くことだ。自分の体が何に侵され、どのような治療法が可能かを理解することだ。実際、より多くの情報を知り権限を与えられた患者は、より長生きする、という現実がある。
 もしも負けたら? もし再発し、癌が戻ってきたらどうなのか? それでも闘う中で、きっと得るものはあると思う。なぜなら残された時間の中で、僕はより完全で思いやりがあり、知的な人間を目指して努力することで、もっと生き生きと生きられるだろうからだ。病気が僕に教えてくれたことの中で、確信をもって言えることがある。それは、僕たちは自分が思っているより、ずっとすばらしい人間だということだ。危機に陥らなければ現れないような、自分でも意識していないような能力があるのだ。それは僕の運動選手としての経験でも得られなかったものだ。
 だからもし、癌のような苦痛に満ちた体験に目的があるとしたら、こういうことだと思う。それは僕たちを向上させるためのものなのだ。


出版後も前人未到のツール・ド・フランス7連覇(!)、離婚、再婚、引退、再帰、二度目の引退(昨年の話だ)…と盛りだくさん。
ただし、これは本のテーマでもあるけれど、どんなにドラマチックな出来事があっても、そのあとも人生は(日常は)続いていく。ドラマのあとの日常をどう生きていくか? 重いテーマではある。

癌からの再生で学んだのは、絶望の叫びが終わり、自暴自棄と危機が去り、病気の事実を受け入れ、健康が戻ってきたことを祝った後には、以前と変わらぬ日常と習慣があるということだ。朝、目的をもってひげを剃り、仕事に行き、妻を愛し、子供を育てる。こうしたことは日々をつなぐ糸であり、「生活」という語にふさわしい。

意味合いは違えど、われわれ日本人も、震災という大きなドラマのあとの日常をどう生きていくのか。突きつけられている問題には似かよったものがあるように感じた。