『新・平家物語(十五)』

新・平家物語(十五) (吉川英治歴史時代文庫)
残りわずか。
いよいよ頼朝が義経討伐の命を下す。

「たとえ、舎弟たちろも、かくの如きものを、鎌倉の代官とゆるしておいて、なんで、天下に律令を立て、緒人への示しがつこうか。泣いて馬謖を斬る──というたとえもある。いまのうちに根を絶たずば、後日、必ず禍乱の元となるだろう。──だれぞ、だれでもよい──即刻、都へ馳け上って、九郎の冠者を討ってまいれ。──九郎に死を与えよ」

この辺り、吉川平家では義経をただ一途に兄を慕うナイーブな青年として描いているが、史実ではまあ、醜い権力争いの末路でもあったのだろう。平安末期から江戸幕府成立までの歴史は、いわば武士団による疑心暗鬼と裏切りの歴史と捉えられなくもない。その端緒がまさに源平争乱なのだ。
後白河院を戴く朝廷側の旧勢力も、「平家は日本半分を領したに過ぎぬが、鎌倉は武権下に、全土を握ってしまう」といった危惧からいったんは義経を盛り立てて頼朝討伐の宣旨を下すものの、頼朝の政治・武力の前にあっけなく態度を翻してしまう。
あまつさえそれを逆手にとって、頼朝は全国に守護地頭を置く権限を院から引き出す。

 日本の土地の上に、初めて、守護地頭の制が布かれ、武家政権なる形が、ここに誕生を見たのだった。
 いやそれは、革命といった方が早い。
 血は流さなくても、武人が武人の手で一切の政治経済を切りもりする幕府政治の創設を、いやおうなく、院に、認めさせたのである。


孤立してしまった義経とその手勢は、都を離れ雪中の吉野へ、さらに北陸から奥州へと落ちていく。

よしの山 峰のしら雪踏みわけて
入りにし人の あとぞ恋しき

最愛の人と離れ離れとなった静は、鎌倉へ連行され鶴岡八幡宮満座の中で舞を舞わされるという屈辱を受けるばかりか*1、生まれ落ちた義経の一粒種を取り上げられ海中に沈められてしまう*2
幕府の将が静から赤子を取り上げる哀切な場面では、地の文が静の独白から始まっており、この作者には珍しい演出が余計読者の心に何ものかを訴えかける。ちなみにこの章の題名は「ものいわぬ四方(よも)の獣(けだもの)すらだにも」で、頼朝の子・源実朝が詠んだ歌「ものいわぬ四方の獣すらだにも 哀れなるかな親の子を思う」から取っている。深遠な皮肉ともとれる。

*1:鎌倉で静を預かっていた安達新三郎の邸で、梶原景家(景時の息子)らが静をなぶりものにする場面で、さりげなく加賀国守護・富樫泰家が登場する。いうまでもなく、「勧進帳」で安宅関を守るあの富樫氏である。

*2:この場面では流浪の僧・西行がさりげなく登場。