『王朝政権から武家政権確立』
- 作者: 蜂矢敬啓
- 出版社/メーカー: 高文堂出版社
- 発売日: 1988/02
- メディア: 単行本
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市井の研究家であるがゆえに、着眼点や筆運びも学究を越えた面白みがあるのだが、この本の一番の魅力(もしかすると偏向)は、鎌倉幕府成立の流れを、「何世紀にもわたる長い間、王権に圧伏されつづけてきた人びと」すなわち東国人による怨嗟の総決算、と結論付けているところ。
筆者は東国武士団の成り立ちを、朝廷から「蝦夷」とさげすまれてきた人々から説き起こす。律令制下、都へ祖庸調を送り届ける運送を請け負った者、それを奪おうとする者の双方が次第に力をつけて武士団を形成していく。そこへ上総介として平高望が下向し根を張るのだが、高望系の平氏の家督争いに過ぎなかった平将門の乱が、やがて国家を揺るがす一大事にまでなってしまったのは、いかに坂東の地が軍事上の重要拠点であったかの証拠だという。
挙兵後に鎌倉*1に拠点を構えた源頼朝だったが、そもそも開発領主でない頼朝は、朝廷から領地や武士政権の長の立場を承認してもらう必要があり、それゆえ無闇に京に攻め上らず鎌倉に腰を据えて後白河法皇と交渉にあたった…という筆者の見方は新鮮だった。
こうして頼朝が旗を振った(筆者いわく)東国人の反乱は、頼朝の死後坂東武者の代弁役として北条氏が引き継ぎ、義時が後鳥羽上皇以下を流罪とした承久の乱の終幕を経て、ようやく武士による日本支配という結実を迎えるわけだ。
承平・天慶の昔、平将門がひとたびは夢想し、平清盛もまたあるいは望んだかもしれない武士の世、そして鎌倉に本拠を置くことによって、京とはいくばくか距離を置きながら全国支配を実現しようと企図した源頼朝の武士政権であったが、ようやくにこれを現実の中で手にすることができたのは、鎌倉幕府創業から四十年も経ってからであった。
平将門の乱から数えれば三百年に近い歳月を、東国の豪族たちはていよくあしらわれながら西方の権力に圧服されつづけてきた。幕府を鎌倉に開いてからでも、源頼朝以下の幕府中枢が腐心してきたのは、いかにして本来の敵対者である京の政権を倒すかにあった。…(中略)こうした鎌倉将軍以下の幕府吏僚の政治的な動きを見詰め、これに学びつつ苦難の歳月を過ごしてきた執権北条義時は、六十歳にもなろうとする承久の乱後にはじめて将軍源頼朝を越えた。本来の意味での武士のための武士政権の頂点に立つことができたのであった。
それにしても東国人に力点を置いた筆者の思いは何なのだろう? それを推し測る以下のような一文があった。
過去の歴史教育のなかで、私たちはとびきりの貴族である慈円*2のような立場から世の中を見るような、顧みていささか奇妙な教育を受けてきたようである。どちらかといえばときの権力の側からみた歴史観である。もう少し私たち自身に近い始点から周囲を見詰めたらという思いは絶ちがたい。
筆者の思いはここなのである。