『鎌倉時代 その光と影』

鎌倉時代―その光と影 (歴史文化セレクション)
私は以前から「一番好きな幕府は鎌倉」を公言してはばからないのだが、吉川英治の『新・平家物語』を読み始めてから、ますます鎌倉幕府成立までの流れに興味を覚えるようになった。その入門書として本書を図書館で借りた。中世史の大家・上横手雅敬氏が、あちこちの学会誌等に掲載してきた論文・エッセイを集め、平易に書き直したもの。
とくに第一章「鎌倉時代の展望」は、鎌倉幕府の成立から摂家将軍の招聘、北条氏による執権政治、二度の元寇、そして後醍醐天皇による親政復活までを約20ページで簡潔かつ要点を抑えてまとめていて、ためになった。
鎌倉幕府がエポックメイキングなところは、それまでの畿内中心の天皇貴族の支配に対して、鎌倉(後には江戸)など坂東を基盤とする武士政権を初めて生み出し、
「日本歴史の複眼視的な構造」を生み出した点にある。
源頼朝は、最初は反乱軍として兵を挙げながら、平家追討、義経追捕、奥州藤原氏征伐の過程で全国の守護・地頭の任免権を握るようになる。しかしこれは、警察権と租税徴収権を手にしたというに過ぎず、荘園制度そのものは存続していたため、たとえば以下のような状況が生じうる。

 幕府は本所領不介入主義をとり、荘園経営をはじめとする貴族・社寺の家政には介入せず、幕府法も幕府の支配範囲のみに適用された。同様に在地領主たる御家人の領主権もまた、幕府の干渉の外に置かれ、(中略)農民支配もそのような領主権領主権の一部であるから、一般に農民には幕府権力が直接及ばなかった。したがって、農民にとっては、彼らに加えられる荘園領主、在地領主の支配が権力の全体であり、農民にとっての幕府、朝廷、国家等は存在しなかった。

この後、二度の元寇の際には、朝廷から元への返書を執権北条時宗が握りつぶしてしまったが、幕府内の得宗専制体制の強化の結果、朝廷の持つ外交権も幕府が奪ってしまったことになる。


ところで鎌倉幕府が権力を一部引き継いだ「天皇貴族の支配」の中身だが、これは摂関政治から南北朝時代に至るまで、実は「院政の時代」だった。

 より巨視的に考えると、平安後期、応徳三年(一〇八六)に発足した院政は、鎌倉末期、元亨元年(一三二一)後醍醐天皇後宇多法皇院政を停止するまで、鎌倉時代のほとんど全期間を通じて存続しており、鎌倉幕府も結局は院政が代表する朝廷によって存続を承認されているのである。
 (中略)承久の乱後も院政はたしかに存続しているし、征夷大将軍を任命し、幕府の存在を承認しているのは依然として朝廷である。しかし逆に院政の開始、天皇の即位等が、幕府の干渉を受けたという側面をも無視できない。院政は存続したものの、その機能が大きく弱体化したのは事実であり、承久の乱は平安後期、鎌倉時代を通じて二百余年に及ぶ院政期を二分するに足りる意義をもっている。