『白鯨(上)』

白鯨 上 (岩波文庫)
ハーマン・メルヴィルの『白鯨』といえば、エイハブ船長が自分の左足を奪った凶暴な白い巨大鯨「モビー・ディック」を追う話…というくらいは知っていたが、まさか岩波文庫で上中下全3巻ものボリュームのある話とは思ってもみなかった。
「モンスターへの復讐」という単純に思えるプロットでも、それが聖書や哲学などの実に幅広い知識を盛り込んで語られ、また当時の捕鯨や水夫たちの様子が自身捕鯨船の乗組員だったこともあるメルヴィルの筆により事細かに活写されるため、これだけの文量になってしまっている。が、決して冗長には感じない。


そのボリュームよりさらに驚かされたのが、本作が発表されたのが1851年だということ。てっきり20世紀の文学かと思っていたので冷や汗をかいた。1851年といえばロンドンで第1回万国博覧会が開かれたり清で太平天国の乱が起きた年で、日本は幕末でいまだ鎖国中の時代である。
ちなみにこの年、ジョン万次郎がアメリカから帰国したりしているのだが、実はここが大きなポイント。
万次郎は土佐の国の人で、漁に出て漂流し無人島で遭難生活を送っていたところを、アメリカの捕鯨船に救助されて合衆国に連れて行かれることになるのだ。そう、つまり幕末には日本近海に多数のアメリカ捕鯨船が訪れていたということで、本書の訳注93によれば以下のようになる。

…桑田透一『開国とペルリ』(日本放送出版協会、一九四一年)の「序」に「ペルリ*1は日本開国の恩人にあらず、真の恩人は日本近海の鯨族である」とあるように、一八五四年に調印された日米和親条約のアメリカ側のねらいのひとつは捕鯨船に対する欠乏品の補給と漂流船員の保護にあったことはたしかである。ちなみにペリーの艦隊が最初に浦賀沖に姿を見せたのが一八五三年、ハリスが下田に駐在して実際に国交がはじまったのが一八五六年であるから、一八五一年に『白鯨』を発表したメルヴィルが「日本の開国は目前にせまっている」と書いたのは真に迫っている。

上記で引用されている桑田氏によれば、1843年(天保14年)には108隻の米国捕鯨船が、1846年(弘化3年)には292隻が、それ以降も100隻前後の捕鯨船が、日本近海に出没していたそうだ。
本書の主人公たちが乗った船などがまさにその典型のような航海をしており、アメリカの東海岸から大西洋を横断し、喜望峰を回って東南アジアから当時「ジャパン・グラウンド」と呼ばれていた日本近海の大捕鯨地帯を経由、太平洋のど真ん中でモビー・ディックと対峙することになる。
…ま、このあたりの捕鯨の歴史についてはその後いろいろと興味深いことを知った。書き始めると長くなるので、また別の機会に。


第十五章「チャウダー」で出てくるクラムチャウダー(ハマグリの煮込みスープ)の描写がすこぶる垂涎ものだった。
主人公シュメールと僚友クイークェグが投宿した、その名も「煮込み亭」の食堂での場面。

「ハマグリ、それともタラ?」彼女はくりかえした。
「夕食にハマグリですって? あのハマグリのように冷たいというハマグリ、そうなんですか、ミセス・ハッシー?」わたしは言った。「冬場にしては、いささか冷たい、ハマらない接待ではありませんか、ミセス・ハッシー?」
 しかし入り口でどなられるのをまっている紫色のシャツを着た男のことで頭がいっぱいのおかみさんは、ハマグリということばしか耳にはいらなかったとみえ、台所に通じる開いたドアにかけよるなり、大声で「ハマグリ、二人前」とさけんで姿をけした。
「なあ、クイークェグ」とわたしは言った。「ハマグリひとつでおれたちふたりの晩飯のたしになるかい?」
 ところが、温かく、うまそうな湯気が台所からただよってきて、われらの暗澹たる前途の予測は裏切られそうな気がした。そして湯気をたてたチャウダーが実際にはこびこまれてきたときには、ありがたいことに、すべての謎はとけた。ああ、親愛なる友よ、読者よ、聞きたまえ。それはハシバミの実ぐらいの小型だが多肉質のふとったハマグリに、くだいた堅パンと、塩豚の薄切りをまぜ、バターをたっぷりとかしこんでこくをつけ、塩と胡椒をしっかりきかせた逸品だった。酷寒の海をわたってきたせいか食欲は旺盛だったし、なかんずくクイークェグにしてみれば大好物の海鮮料理が出たのだし、そのうえチャウダーの味が超一級ときたので、われわれはまたたくまに平らげてしまった。一息ついて、わたしはハッシーのおかみさんのハマグリかタラかという問答を思い出し、ちょっぴり実験をしてみようとかんがえた。私は台所の戸口のところまでゆき、力をこめて「タラ」という語を発声して、席にもどった。二、三分すると、においこそ違え、同様にうまそうな湯気の香りがして、ほどなくタラのチャウダーが眼前にはこばれてきた。

*1:黒船の提督ペリーのこと