『白人はイルカを食べてもOKで日本人はNGの本当の理由』

白人はイルカを食べてもOKで日本人はNGの本当の理由 (講談社+α新書)
新宮支局に赴任した新聞記者の筆者が、捕鯨の町・太地を何度も訪問しながら映画「The Cove」の上映前後の騒動を追いかけ、反捕鯨団体の実情に迫ったルポルタージュ。最終的には、太地と同じく伝統としての捕鯨を行っているイギリスの北にあるフェロー諸島まで取材に行っている。


太地の漁師さんたちについては、つい先日もNHKで「クジラと生きる」という秀逸なドキュメンタリーをやっていて、この日記でも取り上げたところ*1
山が海のそばまでせり出していて水田や畑を作る土地の無い太地は、逆に入り組んだ地形を生かして、クジラを追い込み捕らえる漁を古来発展させてきた。だが、1878(明治11年)年の「大背美流れ」と呼ばれる大規模な事故により働き盛りの男たちは大多数が遭難し、古式捕鯨は途絶えた。
しかし第二次大戦後、今度は南氷洋での捕鯨が盛んになると、本来は古式捕鯨の技術とは何の関係もないはずの近代捕鯨においても、太地の男たちは活躍するようになる。やがて、「The Cove」で取り上げられた沿岸での追い込み漁が再開されたのだが、これは当時の太地町長の観光戦略によるものだったらしい。


筆者は「The Cove」の欺瞞として、映画製作サイドが正義の味方で漁業関係者が悪の根源であるという設定、主人公的に登場するオバリー氏が語る「自分の可愛がっていたイルカの死は自殺だった」といった発言などを挙げる。
このオバリーという人は、かつて「フリッパー」というドラマで人気を得たイルカの調教師だった人だが、上記のようにイルカの“自死”を目の当たりにして、一転、反捕鯨の立場になったのだという。これに対し、筆者の見方は辛辣だ。

そもそも、オバリー氏の生き方が自作自演そのものである。かつて、『フリッパー』というドラマで、「イルカはかわいい。一緒に遊べる」というイメージを大いに作り上げ、大儲けしたと思いきや、そのイルカが死ぬと、今度は反捕鯨、反イルカ漁を訴える活動でまた大儲けしようとしているように見える。反イルカ漁を盛り上げることができるのは、「イルカがかわいい」というイメージを作ったからこそだ。世界は、彼におどらされていることになる。


筆者はまた、「The Cove」関係者と同じく、映画公開後に太地に出入りして捕鯨を妨害するようになったシー・シェパードについても、代表者に対し正面から取材を行ったりした結果、「グローバリゼーションの押しつけ」だと断じる。
シー・シェパードの幹部ウエスト氏の段。

伝統と文化に対しては理解しているが、長く続いているからいいというものではない。より学び、より啓蒙されることによって、私たちの行動が評価されなければならない。
いつの日か、もう続けてはいけないものがあることも理解しなければならない。たとえば、奴隷制度。時が来れば終わらせなければならないものがある。鯨類の捕鯨もその一つである。

イルカは牛などに比べて人間に近い。われわれと同じような複雑な頭脳と形態を持っている。
彼らは文化的な共同体を持ち、自身の言葉や歴史を持っているから人間に近い。他の家畜とは違う。彼らは尊敬され、守られなければならない。腹が減ったから食べていいというものではない。
彼らは、われわれの知らないことを知っている。彼らから学ばねばならない。彼らは、地球を破壊せずに存在することを知っている。人間は環境を破壊した。彼らはそうではない。だから、われわれは彼らから環境を保存し、平和を保つ方法を学ばねばならない。

他の星から宇宙人が地球に現れたら、彼らを殺さないで、彼らと話し合うだろう。それと同じようにイルカと話さねば。


ところで、これは本書を読むまで私も知らなかったのだが、イルカの漁獲量は日本全国で毎年2万頭で、うち太地は2,300頭にすぎない。最も多いのは岩手県で1万4,000頭だという。これらはもちろん食用として獲られている。つまり、「The Cove」以来執拗に攻められる太地町だが、本当にイルカ漁をやめさせたいのであれば、まずは岩手県に抗議活動を行うべきだろう。
それなのに、何故太地町が狙い撃ちされたのか? 筆者は、岩手のイルカ漁はあくまで商業ベースのものなのに対し、太地は町を挙げて「捕鯨・イルカ漁の町」を標榜しているので、象徴的に取り上げられたのではないかと推察する。
しかし、本書のあとがきによれば、前述のシー・シェパード幹部のウエスト氏は、3月11日に岩手の海岸でイルカ漁の監視の最中に震災にあい、立ち往生していたところを地元の人々に救助され、手厚い支援を受けたという。…皮肉といえば皮肉だが、これで多少はコチコチに凝り固まった考え方も和らいだだろうか?


本書で最も目からウロコが落ちた部分は、水産庁資源管理部遠洋課捕鯨班の高屋氏の発言部分だった。

映画のなかでもありましたが、日本全国で食べてないからとか、東京で食べてないから文化ではないという議論ですが、食文化って何かというと、基本的に食の多様性だと思うのです。京料理なんて、京都の地方料理ですけど、これを日本の文化といってはいけないのでしょうか。

また、反捕鯨側がよく言う「鯨やイルカの体内に蓄積された水銀が人間に害を与える」という話についても、そもそも魚の水銀汚染は工業排水ではなく海底火山が原因だという話も、驚きだった。

これ水俣病総合研究センターからの受け売りなんですが、ここ数百年、水銀汚染の数値はそんなに大きく変動していないというのです。要するに、産業革命が原因で水銀地が上がったというのは、少なくとも日本でなはい。

海水中には火山性の水銀がいっぱいある以上、食物連鎖がある限り、魚介類には水銀はあるものなのです。

また、財団法人日本鯨類研究所顧問の大隅清治氏による、反捕鯨の人々に対する意見も、共感を持って読んだ。

彼らのビヘイビアを見ていると、科学的な話が通じていない。感情で主張している。要するに、言葉が通じない。会話が成立しないんですね。

捕鯨の主張は最初、『鯨は絶滅に瀕している』という主張だった。それが、われわれの調査によって、そうでもないとわかると、その次に『鯨は頭がいい』といいだした。それもわれわれが調査して、必ずしもそうでもないとわかると、その次は、『鯨を殺すのが残酷である』という主張になった。それで、われわれは、瞬時に殺すという人道的捕殺法も開発したわけです。そしたら、その主張も使えなくなった。で、今は『何が何でも殺してはならん』といっている。それしかいえなくなってしまったんです。

…この方は「アメリカはベトナムにおける枯葉剤の追及をそらすために反捕鯨の火をつけた」という説も唱えておられたが、これはどうなのだろうか…?