『よくわかるクジラ論争―捕鯨の未来をひらく』

よくわかるクジラ論争―捕鯨の未来をひらく (ベルソーブックス)
素朴な疑問。何故クジラを獲ることを「クジラ漁」と言わず「捕鯨」と言うのか?
現状で漁と表現するといろいろ角が立つというのは分かるけど、江戸時代にやってたのとか、モラトリアム前に諸外国がやってたそれなんかは、漁と言ってもいいような気がするけれど。この「捕鯨」という言葉自体に、奥歯に物の引っかかったような、あるいは必要以上に感情移入があるような、独特のニュアンスを感じなくもない。
ちなみに英語では「Whaling」とそのものずばり。


長くなるので興味のある人は以下から続きをどうぞ。
捕鯨については少し前から気になっていて、この日記でも以前ちょこっと触れたりしたことがある*1
その後、メルヴィルの『白鯨』を読み始めて、現在反捕鯨の旗手になっている英国や米国あたりがむしろかつては世界の捕鯨をリードしていたのに、今となってこの180度転換は何なのか? と興味を覚えて、いろいろ歴史を調べてみたりした。
本書もその一環。
筆者は元水産庁官僚で、退官後も様々な立場で捕鯨問題を担当してきた人なので、もちろん捕鯨反対派への反論というスタンスでこの本は執筆されている。だから必要以上に(?)日本の捕鯨関係者をヒロイックに表現する箇所も散見されるので、そこはぜひ割り引いて読みたいところ。


いろいろ読んでみて感じているのは、捕鯨推進派と捕鯨反対派の議論が全くかみ合っていないということ。しかも議論が噛みあわないまま、先日のシーシェパードの事件のような一部の先鋭的行動が表面的に報道されるので、問題を見ている側にも本質がうまく伝わっていない、ということだ。
私なりに捕鯨の歴史を整理すると、以下のようになる。

  • 欧米諸国は、そもそも良質の油として鯨油を獲るために捕鯨を行っていた(油を獲った残りの肉は海に捨てていた)。大航海時代の到来とともに世界の版図を広げていく過程で、大西洋や太平洋でクジラを捕まえる技術が発達し、大規模な捕鯨が繰り広げられた。
  • 日本ではもともと沿岸地域にやってきたマッコウクジラやセミクジラ等を捕まえていたが、江戸時代の末期に(とくに)アメリカの捕鯨船が日本に近い太平洋のクジラを根こそぎ捕獲したため、沿岸にはクジラが来なくなり、一旦日本の捕鯨は衰退した。
  • 最初に大西洋の、次に太平洋のマッコウクジラをはじめとするクジラ資源ほぼ獲りつくした欧米諸国は、「ノルウェー式」と呼ばれる新技術の獲得を経て、南氷洋でのナガスクジラ捕鯨に行き着いた*2が、これもやがて乱獲のため枯渇。
  • その後安く石油が流通するようになったので、欧米諸国は採油の手段としての捕鯨に価値を見出さなくなった。
  • 60年代から70年代にかけての世界的な環境保護への意識の高まりの中で、ある時からクジラは自然保護の代名詞としてキャンペーンに使われるようになり、もはや捕鯨を止めても痛痒のない欧米諸国は、率先して反捕鯨を宣言するようになった。
  • 一方日本は、鯨油や工芸品としてもさることながら主に食用として捕鯨を行っていたため、欧米が次々と捕鯨から撤退していった後も南氷洋での捕鯨を続けている(現在に至るまで)。
  • 国際捕鯨委員会IWC)は、もともとは欧米の捕鯨国による鯨油の生産調整(価格を下げすぎないように捕獲量=産油量を調整する)のための会議だったが、その後クジラ資源枯渇の危機に見舞われ、持続的にクジラ資源を利用できるように捕鯨国間で調整をするための機関となった。
  • IWCは1982年に全ての商業捕鯨を停止する「モラトリアム」を採択しているが、日本による南氷洋の調査捕鯨は、そもそもの趣旨である「クジラ資源の持続的利用」のための基礎資料として、クジラの生態や生息数などのデータを取ることを目的としている。ちなみに捕獲したクジラの肉を流通ルートに乗せて処分することで調査費用をまかなうことは、IWCの規約に明文化され認められている。


つらつらと調べていくうちに、捕鯨問題の争点となるのは、捕鯨が文化であるかどうかや、クジラに知能があるかどうか、…などではなく、もしかすると鯨肉に需要があるかどうかですらない。問題は、「クジラの生態を誰がコントロールするのか(できるのか/必要があるのか)」ということに尽きると感じた。
捕鯨派の主張では、全てのクジラは絶滅の危機に瀕しているので捕獲などもっての他、ということになる(生息数が適正に戻ったらどうするのか、という問題は話し合われない)。
ところが日本の調査によれば、資源としてのクジラは順調に数を回復しているばかりか、ある特定の種(ミンククジラ)については異常に個体数を増やしているため、それらが捕食する水産資源(オキアミ、イワシ、タラ、サンマ、イカなど)がかなりの勢いで減少傾向にあり、さらには同じエサを食べる別の種のクジラ(ナガスクジラなど)の数がなかなか増えない。
そこで日本がIWCなどで主張しているのが、増えすぎた種(つまりミンククジラ)を資源として持続可能な範囲で間引いて、他の種類のクジラや、世界の人々が必要としているタラ、サンマ、イカといった水産資源の数を増やそう(元に戻そう)、ということらしい。
間引いた分はこれまでどおり食用に回したり工芸品として活用すればいいし、それで生態系が元に戻るのならば、みんながハッピーじゃないか、というわけだ。


日本が蓄積しているデータやその分析が正しいと仮定すれば、日本の主張も一見もっともらしく思え、反捕鯨側の主張が非合理的に思える。
しかしここで我々が一歩引いて冷静に考えなければならないのは、仮にデータが正しかったとしても、それを元にして「生物の数を都合よく調整する」なんてことが、果たして本当に一国の行政機関や国際機関に、ひいては人類に可能なのか? という重いテーマなのではないだろうか。
コントロールできるという前提で動いているという点では、推進派も反対派も同じ論理の裏表に過ぎない。どちらに傾いても極端なのかもしれないのに。
けだし、これはクジラに限った話ではない。

*1:2006年10月29日の日記参照。

*2:マッコウクジラやセミクジラは死んだ後も水に浮かぶので捕獲・解体しやすかったが、ナガスクジラは潜水時間が長い上に死ぬと水中に沈むため、銃で銛を発射して体に深く突き刺しワイヤを引っ張り上げる「ノルウェー式」が発明されるまでは捕獲が困難だった。