『沖縄文化論 忘れられた日本』

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)
岡本太郎が返還前の沖縄に乗り込んで書いたルポルタージュ。本人も書いているが、当初は沖縄の友人に誘われて行っただけの物見遊山の旅のつもりが、図らずもその文化について考えていくことで日本の文化論を展開するに至ったという経緯を持つ、我々読者にとっても非常に知的好奇心が刺激される一書。
沖縄を語るときに、日本国内で唯一の地上戦が展開された太平洋戦争のこと、そして占領から1972年の返還後現在に至るまでの米軍の存在は、最も重要でコンテンポラリーなテーマである。
しかしもしかしたらそれ以上に重要で衝撃的なのは、明治以前の薩摩藩による苛烈な琉球支配の歴史である。これはある世代より上の人にとっては常識のようなのだが、そして日本史の授業等でもチラリと触れられたりはするのだが、ここまで詳細の話は本書で初めて知った。
それはつまり薩摩藩によって琉球に課せられた「人頭税」の厳しさについての話だ。

 徳川初期、慶長十四年には琉球は薩摩の島津侯に征服された。以後、過酷きわまる搾取の対象になるのだが、負担は八重山に重く押しつけられた。その徹底的な収奪は、まったく冷酷無残だったらしい。
 厖大な年貢は島全体に割り当てられる。どんなことをしても供出されなければならない。十五歳以上、五十歳までの男女は、一律の頭割りで分量がきめられる。総高は不変。一人でも怠れば村全体の責任として追究された。島がどんなに飢饉であっても、またそのために大勢が餓死すれば、生き残るものの負担は一そう重くなる。

 石垣島郷土史家喜舎場さんは、すでにかなりの年配だが、子供のとき、まだその頃まで続いていた人頭税の苦しさを、身近に見たという(八重山では廃藩置県後も人心の動揺を恐れて、明治二十七、八年まで昔どおりの人頭税制度が実施されていた。徐々にそのきびしさは緩和されたが、正式に廃止されたのは、地租条例が実施された明治三十六年。以後はじめて平等の日本国民として生活できるようになった)。

 …かわいそうなのは耕地のほとんどない小島の人たちだった。それでも人頭税の年貢米は納めなければならない。荒波を乗りきって、よその島に渡り田畑を作った。「新城島ぬ前ぬ渡節(はねれまぬまいぬとうぶし)」など、その舟唄である。往き来できるほど近くの島に土地が得られればまだよいが、そうでないと親兄弟、妻子と別れ、家を出て石垣島とか西表島という大きな島に渡り、雨露をしのぐだけの仮小屋をたてて稲を作り、収穫を終ると自分の島に帰って行ったという。流人の生活である。あるいはまったく故郷を捨てて、未開の土地、悪疫の土地に移住して行かなければならない。そのように耕地にひきずり廻されている人間の運命に、われわれは何をいうことができるだろう。

石垣島西表島は今でこそリゾート的な印象だが、米軍が入ってきて徹底的に風土病を根絶するまでは、入植しても村ごと全滅するほどの悪疫の土地だったそうだ。
こんなことを書くといじわるだが、あの篤姫もこうした苛烈な支配体系の上にいた人物なのである。まあそれを言ったら程度の差こそあれ、封建時代の諸国はみんなそうなのかもしれないが。


とまれ、そうした過酷な状況のもとでは民衆の文化など発展しようもなく、岡本太郎は当初その「文化の無さ」や大陸や内地からの「文化の受け売り」ぶりにかなり落胆したようだ。
しかしそこに至る背景に思いを馳せたとき、苛烈な日々を生き残るために形成されていった琉球の唄や舞の中に、切実な民衆のパワーを感じ取ることができるようになる。それはお飾りの芸術などではなく、生活の中のまさに“アート”なのだと筆者は感じるわけだ。