『松田聖子と中森明菜』
1962年生まれ1980年デビューの松田聖子と、1965年生まれ1982年デビューの中森明菜、そしてその前段として1959年生まれ1972年デビューの山口百恵。この3人の「アイドル」を軸に、80年代に日本の大衆文化に起きた大きな変化を「歌謡曲」という側面から描いた意欲作。
その本を2000年代末の現在、1975年生まれの私が文中出てくる3人の持ち歌が全部mp3で入っているiPodを片手に(イヤホンを耳に)夢中になって読む…というアナクロニズム。
本書はタイトルこそ『松田聖子と中森明菜』だが、主に松田聖子(と作詞家の松本隆)が成し遂げた革命の軌跡を、80年代の幕開けから象徴的なフィナーレに至るまで丹念にたどっている。
松田聖子は、デビューまでは所属事務所でもレコード会社においても中山圭子という新人の2番手という位置づけだったという話や、今は彼女の代表曲となっている「Sweet Memories」も例のペンギンのCMに使われていた当初は曲のクレジットが入っていなかったため「あの歌は誰が歌っているの?」と話題になった*1ことなど、当時子供だった私には新鮮な話も多かった。
松本隆の歌詞の世界が、よく考えると意味不明で非論理的なので、ときどきファンの間で論争が起きたという話も面白かった。
このように、作品に含まれる何気ない言葉や、出てくる商品名、地名、人名、曲名などから、作者の意図を必要以上に解釈しようとする読み方が、一九八〇年代には流行した。その際に最ももてはやされたのが、村上春樹の小説だった。(中略)
松本隆&松田聖子作品も、それと同じだった。(中略)「ピンクのスイートピーはあっても、赤いスイートピーはない*2」「マーメイドは人魚なのに、どうして裸足になれるのか*3」「すみれ・ひまわり、と春と夏を代表する花の次が、どうしてフリージアなのか*4」「渚にバルコニーなどあるのだろうか*5」「映画色の街とはどんな色だ*6」など、松本隆&松田聖子の歌詞をめぐっては、ごく一部のマニアのあいだでは、さまざまな論争が展開された。
なるほど、言われてみればそのとおり。
本書の論によると、これは結局、それまでの「恨み節」的歌謡曲の世界への反動として、またメッセージや行動によって何かが変わるとされたそれまでの「政治の季節」へのアンチテーゼとして松本隆が作り上げた、何か意味がありそうで何もない、そのあわいで揺らぐことを目的とした歌詞世界なのであり、これが現在のJ-POPの歌詞世界にもつながっているという。
確かに、いま大人になった私が聞いて心地良いのは、明らかに中森明菜よりも松田聖子の歌。「少女A」や「禁句」などは、歌詞の設定がカッチリし過ぎていて今となっては感情移入しづらい。ところが松田聖子の歌は、どこでも誰でも置換可能な歌詞が多いため、良い意味で聞き流せるし、聞く人の個人的な思い出にも重ねやすいのだろう。
また(とくに初期の)松田聖子の歌の世界では、概して「男がモジモジしているのをじれったく思いながら待っている女性」が主人公となっているが、これが強烈に大衆に刷り込まれた結果、現在の男の晩婚化やいわゆる草食化が引き起こされた…みたいな話もあって面白く読んだ。
巻頭に引用されている以下の言葉。
すべてを読み終えてからこの言葉を改めて目にすると、これは深遠だ。
それにしても本書を読んで思うのは、「アイドル」という存在の、なんと寿命の短いことか。松田聖子や山口百恵は今でも生き残っているが、その背後には10代後半から20代の入り口までで燃え尽きて果てた死屍累々の女性たちが横たわっているのだ…。