『坂口安吾全集(14)』

坂口安吾全集〈14〉
私がいま住んでいる新潟出身の作家に誰がいるのか調べてみたら、坂口安吾に行きあった。そういえばこれまで安吾の文章を読んだことがない。いい機会だと思って、とりあえずちくま文庫の全集から『堕落論』や『日本文化私観』などが収められている巻を図書館で借りてきた。


「堕ちよ、生きよ」などという警句めいたフレーズだけを聞きかじっていたので、なんだか偉そうな人なのかと思っていたが、実際には全然違った。本巻に収められたエッセイを読んでいる限り、むしろユーモアあふれる人に感じた。それも割とひねくれた感じのユーモア。
堕落論」の中の有名な一節。終戦後に太平洋戦争当時の日本を振り返って。

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。

 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなるものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられす、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

この辺の「ひねくれ」感が、裏日本気質といえばそうなのかもしれない。