『ギャンブル依存症』

ギャンブル依存症 (生活人新書)
ギャンブル依存症研究の2冊目。
筆者の田辺等氏は札幌在住の精神科医で、1990年代からじわりと相談が増えはじめたギャンブル依存の問題に次第に真剣に取り組むようになり、現在もさまざまな活動をされているという。そういう方が書いているので、豊富な症例…というかギャンブル地獄に堕ちていく実例が迫真で、薄ら寒くなる思いで読んだ。
そんな筆者も、「ギャンブルがいけないといっているわけではない」「(ギャンブルは)日常生活のスパイス」「はまって抜け出せなくなった人を問題にしている」という意見で、割と中立的、客観的な立場で冷静に書いているのが読みやすかった。


さて、筆者によればギャンブルへの依存は、以下のいずれかに問題がある状態が入り口となって始まる。

学生時代はトップアスリートだったのに、社会人になってかつての栄光と比べ満たされない日々を送っている…、会社で何もかもうまく行かず家庭にも安らぎを感じられない…、子育ても一段落してふと振り返ると自分だけの人生の目的というものが見当たらない…、こういうところにギャンブルに出会い、興奮し、達成感を得ると、それが新たなアイデンティティとなってしまうというわけだ。
しかも「演出」によって引き起こされるこの興奮状態には、ベータエンドルフィンなどの「脳内麻薬物質」が関係していると筆者は見ており、つまりギャンブル依存症は一種の薬物依存と同じような要因・症状があるというのだ。
「依存症の人に人格障害者はほとんどいない」と筆者は書いている。物静かで口数が少ない、おとなしく対人関係が苦手、自己評価は低いが自分への要求は高い、自尊心は強く頑固で負けず嫌い…などの共通項が見られるという。
筆者は最後に、「ギャンブル依存症は治らないが回復する」「人生を健康に生き直す」ことはできると強調し以下のように締めくくる

ギャンブル依存症には3つのドアがある。生物学的な死のドア、人間性の死のドア、そして生還のドアである。


この本に紹介されていて、なるほどと思い家の本棚を探って蔵書でも確認したのだが、『徒然草』の第百二十六段にこんな文章がある。短いので全文書き写そう。

「ばくちの、負極まりて、残りなく打ち入れんとせんにあひては、打つべからず。立ち返り、続けて勝つべき時の至れると知るべし。その時を知るを、よきばくちといふなり」と、或者申しき。
【現代訳】「ばくち打ちで、負けが込んで残り全部をつぎ込もうとするのは、やめた方がよい。冷静になって、いずれ勝ちの流れが来ると考えるべきだ。そのタイミングを知っているのが、よいばくち打ちといえる」と、ある人が言っていた。

徒然草』の書かれた鎌倉時代には、何度も幕府により博打を禁止令が出されていたようで、というか平安時代から江戸、明治、大正、昭和に至るまで、わが国で賭博禁止令の出されなかった時期は無いと言ってもいいほどなのだが、吉田兼好が「ある人が言っていた」と書き残している上記「秘伝」も、古今東西のギャンブル好きが体得してはすぐに忘れてしまう、永遠の逆説みたいなものである。


また、これも筆者が引用していて感心をしたのだが、植木等「スーダラ節」の歌詞は、一番が酒(アルコール)、二番が競馬(ギャンブル)、三番が女性(恋愛)…と、ひととおりの依存症が全て揃っているのだ。
(関係ないけど「スーダラ節」にMJの「スリラー」のPVをうまいこと合わせた面白ビデオを見つけた)

お気楽サラリーマンを歌ったなかにこれらの諸問題を盛り込んだ、作詞家・青島幸男氏の慧眼というべきだろう。