『作家の自伝53 坂口安吾』

作家の自伝 (53) (シリーズ・人間図書館)
いろいろな作家が自らの半生について書いた文章を集めたシリーズの、坂口安吾の本を借りてみた。
これによると安吾の生家は新潟の豪農の出で、父親は政治の世界にも関わったりするような、いわゆる地方の名士の家だった。あまり商売っ気のなかった父親の代でほぼ身代を食いつくし、安吾が生れた頃はそれほど豊かでもなかったらしいが、それでも小間使いたちの出入りする屋敷に住んでいたそうだ。ちなみに、その屋敷のあった場所の近くに、今年になってから「安吾 風の館」という記念館がオープンし、館長には安吾の長男・綱男氏が就任している。
安吾はその名家の13人きょうだいの下から2番目に生まれ、父母からはほとんど省みられず育ったらしい。もっとも、母親とは後年「和解」して親しく付き合うようになったようだが、父親は安吾が18のときに亡くなっているためその機会も与えられなかった。
「田舎の大きな家」「父母(とくに父)からの愛の乏しさ」「早熟な少年時代」「孤独」…こういったキーワードが散りばめられた自伝を読んでいると、安吾の作品に通奏低音のように流れる人間存在の寂寥感が、俄然納得がいくようになる。
安吾自身もその寂寥感を「子供の悲しさ」と表現して、以下のように語っている。

…こういう悲しみや切なさは生れた時から死ぬ時まで発育することのない不変のもので、私のようなヒネクレ者は、この素朴な切なさを一生の心棒にし生を終るのであろうと思っている。だから私は今でも子供にはすぐ好かれるのはこの切なさで子供とすぐ結びついてしまうからで、これは愚かなことであり、凡そ大人げない阿呆なことに相違ないが、悔いるわけにも行かないのである。

 私が今日人を一目で判断して好悪を決し、信用不信用を決するには、たゞこの悲しみの所在によって行うので、これは甚だ危険千万な方法で、そのために人を見違うことは多々あるのだが、どうせ一長一短は人の習いで、完全というものはないのだから、標準などはどこへ置いてもどうせたかゞ標準にすぎないではないか。