私と自分探し(ワタジブ)

「自分探し」という言葉について、個人的なコメントをいくつか。
私自身も団塊ジュニア世代であることもあって、まさに本書で触れられているような「第一次」の「自分探し」ブームは実感として体験している。1995年頃だったか、角川文庫のキャンペーンにMr.Children桜井和寿が起用されたことがあって、そのときのキャッチコピーがまさに「自分を探す」だった。あの雰囲気が、まさに「第一次」の空気だったと思う。つまり文系、ミスチル*1、心理学、旅、モラトリアム…といった感じ。そしてそれは確実に「良いこと」だった。
しかしその後2000年代に入ってからは、「自分探し」という言葉は私の中では“いつまでたっても終わらないモラトリアムの言い訳”のような、つまり「あいつ今なにやってるの?」「相変らず自分探し中らしいよ」という具合に会話の中で揶揄(または自嘲)気味に使われる言葉に置き換わっていった。
何故そうなっていったか? それはズバリ、自分が就職したからというのが最大の理由だと思う。つまり、自分で金を稼いで税金を払って食べていくという意味で、「生活人になった」ということが大きい。社会の中における自分の立ち位置ができたことによって、自分は「探しにいくもの」ではなく「ここで作るもの」「ここでみがくもの」に置き換わったのだと思う。


そういうわけで、本書でも取り上げられている中田英寿の2006年ワールドカップ予選後の「“新たな自分”探しの旅に出たい」という有名なメッセージを聞いたとき、ピークでの引退という行動自体の是非はともかく「あらら、その言葉を使っちゃったか〜」というのが私の正直な感想だった。だが意外にも世間的には好意的に受け入れられたようで、美文だから国語の教科書に使いたいという問い合わせもあったそうだ。
この頃から現在までの、揶揄が一巡して逆に肯定された感じの「自分探し」第二次ブームの空気が、私には全然共感できない。
個人的に「自分探し」と同じように揶揄として使っている言葉に「ここではないどこか」的な言説がある。J-POPと呼ばれる歌の歌詞には、よく「翼を広げて」とか「地図を開いて」とか「昨日より明日」とか、そういったセンテンスが腐るほど見受けられるわけだが、自覚的に使っているのか単なるコピペなのかはさておき、あの「ここではないどこかへ」感というのが、私はとても嫌だ。
「自分探し」にしても「ここではないどこか」にしても、自分の未来や可能性を無根拠に肯定する一方で、現在の自分の置かれた環境を全然見ていない気がするからだ。


もっとも、私がこれらの言葉を毛嫌いするようになった原因が「社会の中で自分の拠点ができたから」であるのと表裏一体の理由で、つまり「社会の中で自分というものの立ち位置がつかめないから」これらの言葉を肯定する人がいる…と考えれば、いろいろと腑に落ちる。
社会的な関係性をもっと重視していくべきだという意味において、現代に本当に必要とされているのは「自分探し」ではなく他者との関係性の見直し、すなわち「他人探し」なのではないだろうか。

*1:Mr.Childrenは歌そのものが「自分探し」的で、その中でも「終わりなき旅」(1998年)の歌詞にはずばり「もっと大きなはずの自分を探す 終わりなき旅」といった一節があるほど。