『日本人の動物観:人と動物の関係史』

日本の動物観: 人と動物の関係史
日本人の自然観を表すキーワードの一つに花鳥風月というのがあるけれど、「獣(動物)」全般ではなく「鳥」と限定しているところが象徴的ではある。
鳥は仏教思想では六道輪廻の外にあると考えられていたため、我々の転生の対象ではなく、四季の表れの一つとして遠景的に見られていたのだろう。まさに花や風景や天文のように。
逆に鳥以外の獣は六道輪廻の内にいる存在だったので、言ってみれば自分が転生するかもしれない、あるいはご先祖様が転生した姿かもしれない、わが身の延長線上にある存在として考えられていたようだ。日本で(オフィシャルには)獣肉を食する習慣がなかったのも、このためだという。ご先祖様の魂が入っているかもしれないウサギやシカは食べられないというわけ。
しかしそこにも抜け道はあって、ウサギは「羽」で数えることで鳥だとごまかされ、シカは「もみじ」、イノシシは「ぼたん」あるいは「山くじら」、ウマは「さくら」…などと隠語で呼ぶことで、六道輪廻の外の存在と読み替えていた。


これは、「『魂のない存在』として位置づけられ、しだいにさげすまれ、人より下位の存在として思惟の世界から遠ざけられるようになった。」というキリスト教的動物観とは対照的な動物観である。
本作は、こうした日本人の独特の動物観を、「食べる/食べない」「衣類との関係」「移動・使役」「愛でる」「見せる(見せびらかす)・飼育する・訓練する」「保護する」「霊力を持った存在」…という7つの観点から分析していく。
ただ、こうした「日本文化論」で注意が必要なのは、筆者自身も本書で述べているように、「『日本人の動物観』について論じる際には、『日本人』とはいつの時代の、どのような人々を指しているのか注意しなければならない」ということだ。


さらに本書でハッとさせられたのは、日本人は実は自然を愛する民族ではないのではないか、という記述だった。
つまり、日本人は自然がどのようなものであるかという命題に立ち向かうことなく、自然が好きだと思い込まされているだけ…という説である。

動物についても同様であり、野生動物、とくに奥山の野生哺乳類に対する関心はまったくといってよいほど見ることができない。やまとごころに野生動物は入る余地がないのかもしれない。

こうしてみると、動物観といえるものにほとんど目新しい方向を見出しにくい。ペットへの愛情だけが極端に高まっているのは、一時的なことではないのは間違いないが、動物への関心や動物観に構造的な変化が起きているというよりは、飼育の仕方の違い、家族観の変化など、ほかの社会的要因によって表層に新しい流れが起きていると考えざるをえない。今後とも、総じて飛躍的な変化はないだろうと断ぜざるをえないのである。

日本の動物園の歴史は、動物への理解の貧困に終始している。…来園者をみていると、彼らは動物をほとんどみていない。日本人は動物をまじめな理解の対象とするスタンスが欠けているのではないか。

私自身、大学の卒論でこういう話をテーマに選んだことがあるので、非常に興味深く読んだ。