引退、そして…

松井秀喜選手が引退を表明した。
いろいろな反応があったが、一番心に残ったのはこちらの記事。長くなるが全文を引用させてもらう。

松井を5敬遠した男・河野さん「泣きたくなるほど寂しい」…松井秀喜引退
 松井の引退表明に日本中から惜しむ声が上がった。1992年夏の甲子園大会で、松井に5打席連続で敬遠を投じた元明徳義塾高校の河野和洋さん(38)=日本橋学館大職員=は「泣きたくなるほど寂しい」と声を詰まらせた。河野さんは現在、千葉県の社会人野球クラブチーム「千葉熱血MAKING」で監督兼任選手として現役を続行中。20年前の“夏の記憶”を込めて、背番号は「55」だ。「長い間お疲れさまでした」とスーパースターとなった同級生を慰労した。
 河野さんは松井の引退を28日早朝、テレビで知った。「寂しいし、悲しいです。もう彼のプレーが見られなくなるなんて。まだできるのに何でやめるんだよ、と言いたいところですが…お疲れさまでした。憧れの選手でした」とねぎらった。
 1992年8月16日。明徳義塾は甲子園2回戦で、松井を擁する星稜と対戦。明徳の馬淵史郎監督がエースの河野さんに出した指示は、松井に対しては「全打席敬遠」だった。河野さんは監督の指示通りに、5打席全て敬遠四球。星稜は松井がバットを一回も振ることなく敗退した。当時は大きく報じられ、高校野球の在り方をめぐって社会問題となった。
 悔いてはいないと河野さんは語るが、バッシングの嵐は18歳の高校生にとってはつらいものだった。「救いだったのは松井選手が後日、『甲子園のあの試合が原点だった』と話していたこと。僕にとっても忘れられないゲームになりました」
 河野さんは専大に進学してから外野手に転向。プロ入りはしなかったものの、卒業後も社会人としてヤマハでプレーした。米国独立リーグでも選手経験を積み、2008年には森田健作千葉県知事(63)が設立し、名誉監督を務める千葉熱血MAKINGの監督兼選手に就任。昨年秋には関東クラブ選手権県大会でチームを優勝に導いている。
 自ら選んだ背番号は「55」。一ファンとして松井の打席は、巨人時代からほとんど見ているという。「スイングのスピードも全然落ちていないと思ったけど、やはりブランクが空いてしまったからでしょうか。酒を飲みながら試合を見るのが楽しみでしたが、見られなくなると思うと…。日本に復帰して本塁打を55本打ってやめてほしかった」と惜しんだ。
 松井とは15年ほど前にテレビ番組で対談し、忘れられない一戦を一緒に振り返ったことがあるが、その後は会っていないという。「僕は諦めがつかないんで、極めるまで野球を続けます。まだ未熟ですし。もし、草野球でもいいならですが、対戦したいです」と将来の“再戦”の実現を思い描いた。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20121228-OHT1T00202.htm


あの夏を石川県民として過ごしたことが、今の自分の原点になっている…ような…いないような…。
しかしこれは…本人たちの思いはともかく、「20年越しのストライクゾーンへの投球」は、見たくもあり見なくていいようでもあり。言葉は悪いけど、これはどう考えても客が(お金が)集まる企画だから、実現するならあくまで夢のあるものにしてもらいたい。