『新・平家物語(十四)』

新・平家物語(十四) (吉川英治歴史時代文庫)
壇ノ浦の合戦。かたや義経を将軍とする源氏の軍勢、かたや安徳天皇を擁し平宗盛を将とする平家一族がついに雌雄を決する。

 あわせて、何百艘か。
 吾妻鏡、盛衰記、そのほか、諸書の記載は、どれも一致しない。古典平家は「──平家は千余艘を三手に作る」といい、また「源氏方、三千余艘」としているが、もちろん、誇張である。
 史家の推算によれば、平軍七、八百艘、源軍五、六百艘と勘案されている。平家の長年にわたる西海地方の経営から推しても、源氏方より少なかったとは考えられない。

…この平家方の船には、将や兵馬以外の女子供の乗った船も数えられている。一族揃っての逃亡のはての決戦だったのだから。それに対し源氏方は純粋な軍隊である。
屋島を最後の戦いの場に選んだ平家方には、それなりの目算はあっただろう。それはこの水域の複雑な潮の動きが、騎馬戦には強くても海戦に不慣れな源氏には不利に働くはず…という予測である。だが義経はその潮の動きをも味方にし、ついに父源義朝の仇である平家を討ち亡ぼす。
敗軍の将、平知盛の述懐。

「大きな時の巡りには、いつも伴う犠牲と申そうか。人の子なれば悲しまれもする。が、春の末を去りゆく花々、秋の暮を吹かるる木の葉、平家の末も、あれと似たもの。今を境に、世は変った。まったく、べつな人びとへ移って行った」


平家の公達の討ち死にはともかくとして、まだ御年8つの安徳帝が入水する場面はやはり読むのが辛い。古典では祖母にあたる二位の尼(清盛の妻)が「海の底にある浄土へともに行きましょう」と言って、念仏する帝の手を引いて入水したとなっているが、本作では「入水したのは帝本人だったかどうかは定かではない」という感じにぼかしてあるのがせめてもの救いだろうか。この辺、筆者の優しさが垣間見える。


歴史のむごさはひとり平家の滅亡にとどまらない。凱旋の将であるはずの義経の転落そして破滅が、この先に待ち構えているのである。
このあたり、史実としてはどうだったのか不勉強で分からないが、「判官びいき」の立場で見るならば、義経はひたすら兄を慕う心でいたのに、兄頼朝とその側近のほうで警戒心を募らせていったということになる。

 何しろ、こうして、悶え悶え、かれのすることなすことは、内輪へも外部へも、事ごとに、鶍(いすか)の嘴(はし)とくいちがっていった。
 しかし、だれが酷いといって、人を得意の絶頂に立たせ、また一朝のまに、その者の足元へ、逆境の風雪を運んでくる運命の貌ほど、なさけ容赦のなきものはない。

…ちなみに鶍の嘴(いすかのはし)とは、イスカという鳥のくちばしが上下で互い違いになっていることから、物事が食い違うことを表す慣用句らしい。くちばしの形は以下のリンク先を参照のこと。
http://www.yachoo.org/Book/Show/645/isuka/