『霊能者として生まれて生きて』

霊能者として生まれて生きて

霊能者として生まれて生きて

大槻教授の批判本(7月21日の日記で取り上げた『疑惑の霊能者 宜保愛子の謎』とか)ばかり読んでいては偏りがあるので、宜保愛子さんの著書も読んでみた。
「霊能力」についてはあれだけ批判派だった大槻教授もそこだけは認めていたように、宜保さんは本当に優しく他人思いの女性のようだ。自ら半生を語った本作でもその性格が随所に表れていて、よくは分からないがさまざまな人生経験を重ねてきたことが推し測られる。
とりわけ、出征して帰らぬ人となった兄、戦後米兵の乗ったジープに轢き殺された弟*1についての思い入れは格別に深いようで、2人の印象的な思い出をいくつか書いている。また、結婚して3人の子供に恵まれ、幸せな家庭生活を送っていた時期のことなどを読むにつけ、ますます優しい人柄がしのばれるのだ。
…ところが、そうした思い出話の合間に、唐突に以下のような記述が登場し、ひどく驚かされた。

 私は、霊能者として生まれて来た以外の何ものでもない、と思う事があります。それは、今でも私の頭の中には、事故で亡くなった弟と戦死した兄の二人しかないからです。よく考えてみると、姉と妹二人がいるのですが、プツンと何の思い出も、どんな姉妹であったのか、そしてどういう風に関わり合って生きて来たのかという事さえ、考えられないのです。
 何も口をきかなかった私に対し、姉妹はきっと無視した気持ちになったでしょうし、私はそれ以上彼女達を無視していたとしか考えられません。今でもその人たちの存在は他人以上に遠いのです。私は無を現実にもってくるという事ができませんから、どんなものを書く時も、彼女達は一切登場して来ません。

実の姉妹を「その人たち」と書く、この突き放し方は一体何なのだろう? 単に「優しく他人思いの人」とくくってしまうのがはばかられるような、何か底知れないものを感じてしまう。


さて肝心の「霊視」についてだが、宜保さんによると霊は普通の人間と同じように視界に入ってくるのだが、やや色合いが薄く感じ、体温は全く感じないという。いわゆる「守護霊」としてある人を守っている霊(家族や親戚、知人などの霊)は、その人物のすぐ側に寄り添っている姿が見られるそうだが、何か悪いことが起きたり誤った選択をしている時は悲しそうな表情で、良いことがあるときや正しい判断については嬉しそうな表情で、それと教えてくれるのだそうだ。
その他にも、「テレビ画面のように」昔の情景や霊の伝えたいこと等が、映像として浮かんで見えることもあるのだという。これらは実際の会話とは違うので、国や時代を超えて宜保さんには“理解できる”らしい。
いわく、霊は「忘れられた自分の存在を思い出して欲しい」と訴えるために現れるそうだ。それに気付いてもらうために、いろいろと不思議な現象を起こしたり、時には災難を引き起こしたりするので、(ここが宜保さんの主張する最も大事な部分なのだが)亡くなった人、何らかの理由で捨ててしまうもの、忘れられてしまったもの等々、全てに感謝の気持ちを持って供養にあたらなければならないという。


こうした「生きとしいけるものを敬おう」という姿勢自体、基本的には私も賛成なのだが、この本の中で最も賛同しかねたのは、以下のような記述だ。

 霊能者として生まれて今まで、いろいろな人と出会い、同時にその方たちの先祖とも数多く出会いました。その中で、私が強く不思議だと感じるのは、高貴な身分の人は、決して犯罪者とか悪行を重ねた人とは結婚していないという事です。結婚しそうになっても、何かしらの障害が出て来て破談になってしまうのです。
 公家や大名の子孫は、今はどんなに金持ちでも、人をあやめたり、騙したりするような卑しい身分の人とは生涯を共にしないのです。それを考えると、高貴な先祖たちは自分の子孫を大事にしているような気がしてなりません。先祖の魂が不滅な物であるからこそ、子孫をこのような形で守っていくのではないでしょうか。

うーん、これは…どうなんだろ。近所の俗なオバサンのお節介的な印象で、とても残念な感じ。とくに「公家や大名」といった辺りが。まあ宜保さんの論はこの後、「大切なのは、先祖に過ちがあったならば、決して仕方がないとあきらめないで、どこかで誰かがしっかりと生活を変えていく事が、子孫のためになるのだという事です。」と続くのだが。


宜保さんはこの本を書いた頃(1991年)をピークに、徐々に世間への露出を減らしていく。それは、本書でも息子さんに「もうテレビに出ないで」と言われた…と書いているように、次第に宜保さんを批判する風潮が高まる一方、テレビも演出が雑になったり、宜保さんを道化として描くようになったりしていった結果だった。
「それでも…」と彼女は言う。

いつの日か霊能力がなくなるかもしれない、でもその時に、あの昔の生活がとり戻せるかどうかはわかりません。今はこの霊視を通して、様々な仏様の供養の大事さを、世に伝えることが私の使命なのかもしれないと思っています。

巻末の解説で作家の高橋三千綱氏は、ひとしきり宜保さんの人徳を褒めた後で、ところで誰がこの人自身を救ってあげるのだろうか、といったことを書いている。まさに私が本書を読んで感じたのもそこだった。

*1:この弟さんがまだ赤ちゃんのときに、誤って火箸を宜保さんの顔にぶつけるという事故が起き、一時は左目の視力がなくなるかという重傷だったそうだ。しかし後に、わずかに視力が残ったその左目で、霊視ができるようになったという。