『透明な対象』

透明な対象 (文学の冒険シリーズ)
人生初ナボコフ。『ロリータ』でおなじみの…くらいには知っていたが、実際どんなバックグラウンドを持ってどんな作品を書く人なのか、ほとんど知らなかった。
ナボコフ自身、帝政時代のロシアに生まれ、革命を逃れてロンドン、ベルリン、パリで生活し、後に渡米する…というコスモポリタンなので、本作をチラッと読んだだけでも会話や地の文が英語とフランス語とロシア語を行き交い、めくるめくような言語世界を展開している。これは凄い。言葉遊びとも違う、まさにマルチリンガルならではの感覚。
…というか、島国に生まれ英語もロクに話せない私には分からないけど、ヨーロッパ人はある程度こういう感覚を共有しているのかな?
複数の言語を自由に飛び回る感覚に加え、地の文の語り手も「語り手」と「読者代表」を自由に行き来する。神の目視線なのかと思えば、突如として「我々は…」と読者を巻き込む主語になったり。さらに言えば、主人公も、途中から登場する文豪も、語り手も、すべてナボコフ自身のように思えてくる。
それでいて混乱を招かずにスムーズに物語は進んでいくのだから…。読んでいて圧倒された。
しかしそれも所詮日本語訳での話。英語や仏語を母語のように扱えて原文を読んだら、さらに圧倒されるんだろうな。


もちろんこの作品がナボコフを代表するものではないだろうから、これだけを読んであれこれ言うのはアレだけど、しかしこの文学表現には正直参った。こんなに斬新な手法が、1972年にすでに発表されていたとは!


簡潔かつ芳醇で、開放されていながら完結したこの作品世界を代表するような、以下のフレーズが頭に残った。

 我々がやらないことになっているもうひとつは、説明不可能なものを説明することだ。黒い重荷、ずきずきする巨大な瘤を背負いながらも、人間はなんとか生きてきた。すなわち、「現実」とは「夢」にすぎないのかもしれないという仮説である。現実が持つ夢のような本質を意識している、まさしくその意識じたいもまた夢であり、あらかじめ組み込まれた幻覚だったとしたら、どれほどはるかに恐ろしいことだろう! ただ、これだけはぜひ記憶にとどめてもらいたい。たしかな地面という閉じた円周なしには湖はありえないのと同様に、消尽点なしには蜃気楼もありえないということを。