「イップ・マン 序章」

イップ・マン 序章 [DVD]
ドニー・イェン主演「イップ・マン 序章」を見た。ブルース・リーの師匠筋にあたる詠春拳の達人・葉問(広東語読みイップ・マン)の人生を、太平洋戦争中の抗日運動に組み込みながら綴った作品。
元々裕福な家に育ち、地元・佛山でも名士として通っていたイップ・マンだが、1937年の盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発、1938年には佛山が日本軍に占領され人口は30万人から7万人へ激減、イップ家も接収され極貧の生活に陥る。
そうした中、日本兵との武術試合に勝てば米がもらえる…との話に食いついた佛山の格闘家たちが、試合の末に惨敗し殺されるという事件が起こる。周囲の声もあり自ら道場に立ったイップ・マンは、なんと10人を相手にして全員を叩きのめす。それを見ていた将校の三浦(池内博之)が日本軍の武術師範に招聘しようとするが、イップ・マンはこれを拒否。「日本人には教えない。習いたければ直接試合を」と、三浦との大衆の前での試合を申し込む。


このあたり、どこまでが史実に基づき、どこからが脚色なのかよく分からないのだが、何にせよ終戦後香港に渡ったイップ・マンは飲食業従事者を中心に詠春拳を広め、その最晩年の入門者にブルース・リーがいたことから、今では半ば神格化された存在となっている。
詠春拳の技そのものがどうというよりも、むしろその思想面がブルース・リーに受け継がれ、そして映画を通して世界に広まったと見たほうがよいだろう。


本作中で、中国武術の元には儒教の仁の思想があると言っていた。仁というのは他人にも自分と同じくすることだと。

武術は戦うための技だが、中国武術の精神は儒教であり、武術の徳は仁だ。
他を自分と同じように扱うのが仁。
武力で民に圧力をかけるあなたたちは、中国武術に値しない。

そこで思いついたのだけれど、中国人の「仁」は自分基準、日本人の「和」は他人基準、とも言い換えることができるのではないだろうか。